時計
10. 歌苗のいない時間
「あ、だめ。行き過ぎよ!」
綾音が一志(かずし)の肩を掴んで言った。
「大丈夫だって」
一志が言う。「ほら――」
二人の視線が一点に集中する。
「行け! そこだ!」
一志が拳を握り締める。
「あ……」
二人は同時に間の抜けた声を出した。
「ほら。だから言ったじゃない」
綾音がふくれっ面をする。
「意外と難しいもんだぜ。――そんなに言うなら、お前がやってみろよ」
「単に一志さんが下手なだけじゃないの。あんなやり方じゃ、何万円あったって足りないわよ」
「言ったな!」
二人はUFOキャッチャーの前で睨み合った。とは言っても、決して本気ではない。戯れ合いのようなものである。
「任せなさい!」
綾音はガラスケースの中を凝視した。
わずかな後、取出口からぬいぐるみが音をたてて出て来たのだった。
「もういいだろ?」
一志が半ばうんざりしたような声で言った。「分かったよ。お前の方が上手いってことは」
「降参した?」
綾音が振り向く。少し前から伸ばし始めた髪が、心持ち広がった。
「綾音には、かなわないな……」
一志は苦笑した。
綾音は、一志が何度やっても取れなかったぬいぐるみを、見事一発でしとめたのだった。そのことでいい気になっている綾音に、いささか手を焼いている一志である。
初夏の眩しい陽光に誘われるように、二人は久々に街へと繰り出していた。特に何をするというあてもないのだが、二人にとっては目的などどうでもいいのだ。
出会ってから、半年が過ぎていた。
一志は無事大学に合格し、綾音は三年生になった。今度は綾音自身が進路の心配をしなければならないのだが、当人は全く意に介していない。
「そろそろ、飯でも喰うか」
一志が言った。
昼時と言うには、少し遅い時間だった。
「うん。私、もう死にそう」
「死ぬかよ、そんなもんで。一食抜いただけじゃ、ダイエットにもならないぜ」
笑いながら一志が言う。先刻のお返しである。
「それはちょっと酷い言い方じゃない?」
綾音はふくれてみせる。
「死にそう、なんて言うからだよ」
「だって、ほんとにお腹減ってるんだもん」
二人は人通りの多い繁華街を避けて、川縁の散策路を歩いた。
対岸に見える並木の向こうには、新しい車道が出来ていた。かつてそこには私鉄の線路があった。河原に張り出したプラットホームや、夜に樹々の合間から洩れる電車の窓明かりは、独特の風情を感じさせたものだった。
今、その堤の上を走っていた電車は、あの道路の下を通っている。闇の中を行くその車窓からは、季節の移り変わりを愉しむなどということは、もはや出来なかった。
「何が食べたい?」
綾音が光る川面を見ていると、一志が訊いてきた。
「何って? べつに何でもいいけど」
少し考えて、綾音は言った。
「じゃあ、俺の好きにさせてくれるんだね」
「うん。――でも、いい店知ってるの?」
「知らない。勘だよ」
「なんだか、あてにならないな」
綾音は呟いた。
二人は結局その後三〇分以上も歩き回って、ようやく一件のレストランに入った。とは言っても、最近よく見かけるタイプの店ではなく、むしろ大衆食堂に近いものではあったが。
一志は註文した大盛カレーが運ばれてくるなり、見る間にそれを平らげてしまった。綾音は先に食べ始めていたのだが、おしゃべりしながらということもあって、箸を置いたのはそのはるか後のことだった。
二人は水まできれいに飲み干して席を立ったのだが、そのことからしても、この店の料理の味が窺えるというものだろう。
「結構、旨い店だったな。――どうだ。俺の勘ってやつは」
一志が胸を張る。
「あんな食べ方で、よく味が分かるわね」
綾音は呆れたように言った。
「まあね。それも慣れというやつさ」
「べつに、そんなのに慣れたいなんて思わないわ」
「でも、旨かったろ」
「うん――。まあまあってとこね」
綾音はわざと間を持たせてから言った。実際には、店の見かけからは想像もつかないほどに美味かったのである。
「綾音が『まあまあ』って言うのは、旨かったってことだな」
「どうして、そうなるのよ」
綾音は自分の思っていることが、一志に筒抜けなのを知って赤くなった。
「大体、お前は素直じゃないからな」
「放っといてよ」
「でも、当たってるんだろ?」
綾音は、一志を軽く睨んだ。
「嫌いよ」
「嫌いでいいさ。どうせ本気じゃないんだから。ちゃんと顔に書いてあるぜ」
一志がニヤニヤする。
「ふうんだ!」
綾音は、そっぽを向いた。
しかし綾音は、一志のその言葉に引っかかるものを感じていた。
幼い頃から、綾音は嘘をつけないと言われて育ってきた。だが、最後にそれを言ったのは、誰だったろうか。
それを思い出すのに、そう時間はかからなかった。
それは――歌苗だった。そう、吉堀歌苗。明るくて無邪気で、多少お調子者だった綾音。そんな綾音の中で、昏く沈んで眠り続けていた何かを呼び覚ましたのは、他でもない歌苗その人であった。
あの喧嘩別れした日から、歌苗とは会っていない。それまで通り美術室には出入りしていたが、もう時計の前で足を止めることはほとんどなくなっていた。
新年度が始まって数週間などは、その時計に見向きもしなかったものだった。
最近になってからだった。時計の前でわずかでも立ち停まるようになったのは。しかしいくら目を凝らして見ても、それは抜け殻のようにしか見えなかった。他に誰もいないときに話しかけても、そこに歌苗が現れることはなかった。その時計は綾音にとって、もはやただのモノでしかなくなっていた。
時計自体には何ら変化はなかった。施された緻密な彫刻も文字盤の優雅な数字も、そこに歌苗がいたときと全く変わりはなかった。しかし綾音はその時計に、以前ほどの魅力を感じなくなってしまっていた。
今、思い返してみると、あのときの歌苗の気持ちが分からないでもない。
「時が過ぎれば、総てが思い出になる」
歌苗はそう言っていた。
歌苗と過ごした時間が、徐々に思い出の底へと沈殿してゆくのを綾音は感じた。けれどもそれは、その時が過ぎ去ってしまった以上、もうどうにもならないことだった。
歌苗の言ったように、綾音は“現実の世界の存在”だった。後から後から押し寄せてくる現実。そんな中で思い出は、次第に記憶の底へと追いやられるしかないのだった。
「綾音……」
名前を呼ばれて、綾音は思考の沼の底から浮上した。一志が心配そうな顔をしている。
「もしかして、本気で怒ったのか?」
「え?」
その時はじめて、綾音は自分がとんでもなく難しい顔をしていたことに気づいた。「ううん。ちょっとね、考えごとしてただけ」
「よかった……」
一志が、胸をなで下ろす。「本当に怒らせたのかと思った」
一志は笑顔になった。
「でも――」
綾音が真顔になって言う。「また、あんなこと言ったら、今度こそ本気で怒るからね」
「わかったよ。俺が悪かった」
「うん。今回だけは許してあげる」
綾音も笑顔を作ってみせたのだった。
初夏の陽射しが暖かく照らし続けている下、二人は河原の傾斜の緩い石垣に腰を下ろして、光る川面を見つめていた。