時計
綾音が足踏みしながら情けない声で呟く。肌に貼り付いたブラウスが、薄い湯気を立てている。いくら真夏とはいえ、このような状態では肌寒い。事実、少し悪寒もする。
このままでは、本当に二人とも風邪をひいてしまいかねなかった。
綾音は夏が苦手だ。毎年ひどい夏バテに悩まされる彼女である。連日の暑さですっかり弱りきった体に、この雨がいいはずがなかった。
「でも、こんな恰好じゃ電車にも乗れないよ」
圭子が言う。
「タクシーも停まってくれないよね、たぶん」
綾音は、軒を滝のように流れ落ちる水を見ながら言った。
雨は勢いを強めたり弱めたりしながら、二人の前を風に乗って移ろってゆく。それはあたかも水で出来たカーテンのようだった。
側溝が溢れ、行き場を失った雨水が道路を川のような状態にしてしまっている。あまりにも強い雨のせいで、通りには人影ひとつない。車も、この雨ではワイパーが使いものにならないからだろう、向かいの道端にハザードランプを点けて停まっているのが一台あるだけで、道を往く車の姿はない。二人からほんの数十メートルの所にある信号の色が滲んで、まるで遙か遠くのもののように見えた。
単調な灰色の世界の中で、その赤い色は奇妙に鮮やかに綾音の目に映った。
もう少し――そう、もう少し遅く、美術館を出ていたなら……。綾音は苦い思いをかみしめていた。まだ残りたがる圭子を急かし、半ば無理矢理に連れ出してきただけに、綾音は責任をも感じていた。
どうせずぶ濡れで雨宿りするのだったら、圭子につきあっていた方がよっぽどよかった。しかし、今さら後悔してみたところで、それこそもう遅い。
圭子にしてみれば、それはなおさらのことだろう。彼女の方こそ最悪の思いをしているに違いなかった。それを思うと、綾音はたまらなく申し訳なくなるのだった。
「ごめん……」
綾音は言った。しかしその声は、折からの激しい雨にかき消されてしまった。
「ん?」
それでも、綾音が何かを言ったことは分かったのだろう。圭子は綾音の方を見た。
「ごめんね……、圭子……」
「いいよ、もう。綾音が雨を降らしたわけじゃないんだし」
「ほんとに、私のわがままで……」
「いいってば。――それより、何かおごるの忘れないでよ」
今にも泣き出しそうな顔の綾音に、圭子は努めて明るい口調で言った。
「うん」
それで少しは綾音も気を取り直したらしい。「ケーキ、十個くらいはつける」と、真面目な顔で言った。
「そんなに一ぺんには食べられないわよ」
「じゃあ、分割払いってことで」
その言葉に、二人は思わず笑った。
雨は、まだ止みそうにない。
嵐というのは一体どういうものなのだろうか。台風とも、少し違うような気がする。自然災害がすっかり減ったのと、無味乾燥な専門用語が定着した今では、「嵐」という語感そのものが失われてしまったようにも思える。
きっと、こういうのを嵐というのだろうと、綾音は思った。
「ねえ……」
灰色に煙る街並みに目を向けたまま、圭子が言った。
「何?」
「あの話、本当だと思う?」
突然そう言われても、綾音には何のことだか見当もつかず、虚ろな視線を圭子に向けた。
「あの話って?」
「ほら、修学旅行のとき、言ってたじゃない」
もどかしげに圭子が言う。
「……?」
綾音はそれが何だったかを思い出そうとして、しばらく宙を見つめて黙り込んだ。
そして、たっぷり一分ほど経って、ようやく綾音は声をあげたのだった。
「ああ、あのこと」
それは今年の六月半ばのことで、まだ記憶に新しい。
綾音はほんの二ヶ月前の、修学旅行での様々な出来事を思い出した。