時計
1. 雨
「まったく、もう!」
綾音は悪態をついた。「なんで今日に限って、それも今、雨が降るのよ!」
「そんなこと言ったって、仕方ないじゃない」
傍にいた少女が、なだめるように言う。「どうせ夕立でしょ。すぐ止むわ」
「もう遅いわよ!」
苛立たしげに、綾音は言い放った。
「雨に怒ったって、止んでくれるわけじゃないでしょ」
妙に冷めた言葉だったが、まさに正論ではあった。しかし、実際には彼女自身も内心穏やかではなかったのだ。だからその言葉は、綾音に向けられたものであると同時に、自分に言い聞かせるものでもあった。
綾音が言っていたように、今さら雨が止んだとしてももう手遅れなのだ。二人はすでに、雨宿りの必要もないほど見事に濡れてしまっていたのだから。
先刻から文句を言っている少女、基松(もとまつ)綾音と、それをなだめている糸井圭子は、同じ学校の美術部に所属している。二人は小学生のときからいつも一緒だった。小中高と学校が変わってもクラス替えがあっても、二人が離れてしまうことはなかった。不思議なことに、一年たりとも別のクラスになることはなかったのである。それに今は、クラブ活動まで一緒ときている。
美術部に入ったのは、綾音としては特に理由などなかった。強いて言うならば、やはり圭子がそこに入部することにしていたからだろう。まあ、二人とも絵が好きなことには変わりはなかったのだが。
今日は、クラブの夏休みの課題である芸術鑑賞のレポートを書くために、そろって美術館に来ていたのだった。
一つ一つの絵を子細に見てゆく圭子とは違い、綾音はどうでもいいと思うものには見向きもせず、人混みの後ろから覗いてみることすらしない。ただ、気に入った絵があると時間を忘れて見入ってしまい、その間に圭子が追いつくというありさまだった。
圭子は言うのだった。
「せっかく来たのに、そんなに慌てて見たら損よ」
「くだらない絵なんか見てる方が、時間の無駄じゃない? それより、こうやって好きな絵の前にいるときが一番幸せ……」
追いついた圭子に言った、それが綾音の言葉だった。しかし順路の最後の方はほとんど素描(デッサン)ばかりで、綾音は出口近くの即売場辺りでかなり待たされることになった。
さすがにヨーロッパの有名美術館展だけあって、大変な人出である。特に即売場は芸術的世界とはほど遠く、市場のせりのような様相を呈していた。いくら空調が効いているとはいえ、むせかるような暑さである。
ようやく圭子の姿を見つけて、綾音は駆け寄った。
「何してたのよ。大分待ったんだよ」
「ごめん。でも、綾音。言いにくいんだけど……」
綾音は、何だか嫌な予感がした。
「もう一度、最初から見てみない?」
綾音の予感は的中した。
「もういいじゃない。一通り見ちゃったんだからさ」
「でも、流して見て来ただけでしょ。もうちょっと、気に入った絵をゆっくり見たいの」
その言葉に、綾音は開いた口が塞がらなかった。
――あれで、流して見てただって? じゃあ、気の済むまで見てたら一体何時間かかるのだろう。
綾音は、呆れ顔で圭子を見た。そして、中学のとき美術の先生に聞いた話を思い出した。ヨーロッパの美術館は日本とは規模からして違う。そこにある絵を一枚十秒の割合で見て行っても、何年もかかるという。その先生はレニングラードにあるエルミタージュ美術館に行って来たのだが、一週間ではとても時間が足りなかったと言っていた。そんな所に圭子が行こうものなら、きっと死ぬまで見ているのだろうと綾音は思った。
過去数千年にわたる人類の創造物を、一人の人間が生あるうちに見尽くすことなど、どだい無理なのだ。より多くの芸術に触れようと思えば、それなりに効率が必要だというのが綾音の考えだった。
綾音としては、せっかく街まで出て来たのだから、ついでに買い物などしたかったのだ。
「そんなの、家に帰ってから図録で見ればいいじゃない」
そう言って綾音は、出口へと向かいかける。
圭子は展示室の方を名残惜しそうにしばらく振り返っていたが、やがて諦めたように大きな溜め息をついた。
「ま、いいか……。今日は綾音につきあってあげる。その代わり、何かおごるのよ」
「いいわよ。特大のパフェでもケーキでも」
「そんなの食べたら太っちゃうわ」
そう言って圭子は笑ったが、本当のところはもう少しここにいたいというのが本音だったろう。彼女の目線は絶えず後の方を気にしていたからだ
いくら印刷や写真の技術が発達したとはいえ、やはり実物と図録では雲泥の差がある。微妙な濃淡や発色、作品全体にかかっているはずの色調などは、写真では分からない。例えば濃い緑と淡い青でまとめられた森の絵などの場合、図録で見る限り水墨画のような印象を受けてしまう。実物(オリジナル)には力強く、かつ繊細に描き出された何ともいえない雰囲気があるというのに。
結局二人は図録と数枚の絵葉書を買って、美術館を後にしたのだった。
「なんか曇ってきたね」
歩き出して間なしに、圭子が空を見上げて言った。
美術館に入る前は眩しいくらいに晴れ渡っていた空が、今はその輝きを失っていた。
早く街に出よう。そうしたら雨が降ったって構やしない。綾音は心持ち歩調を早めた。
しかし空はみるみる暗さを増し、雲は二人の頭上にのしかかるように広がってゆく。
「ちょっとやばいんじゃない? これ」
圭子が言い終わるが早いか、すっかり暗くなってしまった空から不気味な青白い閃光が走った。
二人は同時に声をあげた。
雷鳴が間髪を入れずに轟く。
一滴、綾音の額に冷たいものが落ちた。と、思う間もなく街路樹の続く舗道は一瞬にして数メートル先も見えない水煙に包まれてしまっていた。
二人が近くにあったビルの軒先にたどり着くまでには数秒とかからなかったはずだが、その時にはすでに、まるで小一時間も雨に打たれていたような、文字通り“濡れねずみ”のありさまだった。
こうして雨宿りを始めてから、かなりの時間が経っているように思えた。しかし実際には、ほんの10分ほどしか過ぎてはいない。
それにしても、よく降る雨である。「今日に限って」と綾音が怒るのも、無理のないことだった。何故なら、今年は梅雨も含めて異常なほどに雨が少なかったからだ。雷の音を聞いたのも、これで二度目か三度目である。連日の暑さは観測史上の記録を更新し続け、各地では渇水が相次いでいた。八月の半ば、夏休みに入って今日までに、夕立はおろか一滴の雫さえ降っていなかった。
それなのに、今日のこの雨ときたら……。
「まるで今までの分、まとめて降ってるみたいね」
そう言うと、綾音は身震いした。
「集中豪雨ってやつね。きっと――」
圭子が最後まで言い終わらないうちに、それまで雨に煙っていた街並みが、紫色の光に一瞬だけはっきりと照らし出された。それに続く轟音は辺りを震わせ、二人の耳からしばらくの間聴覚を奪った。
尾を引く雷鳴は、すぐさま降りしきる雨が激しく路面を叩く音の向こうに紛れていった。
「このままじゃ、風邪ひいてしまうよぉ」