時計
本当に失礼な男だと、歌苗は思った。実直な大学教授の家庭に生まれ育っただけに、その態度には反発を禁じ得なかった。しかしその感情は、歌苗の思ってもみないかたちで表れたのだった。
「本当に失礼な人」
数メートル先まで行っていた若者の足が停まる。
「ご自分のお名前もおっしゃらずに、そのまま行かれるのですね」
言ってしまってから、歌苗は自分の言葉に驚いた。
「そうだね」
彼は振り向いて微笑んだ。そして歌苗と真正面から向き合うと、急に真面目くさった顔つきになり、佇立姿勢で学生帽を取って一礼した。
「お嬢さん。これは失礼いたしました。自分は、峰岡裕徳(ひろのり)と名乗る者であります。只今、H中学の第二学年に在籍しております。今後、お見知りおきを」
歌苗は圧倒されて声も出なかった。完全に馬鹿にされたような気がして、今度は本当に腹を立ててしまった。
しかしその後、自分の気持ちがどのように変化してゆくのか、歌苗自身にも知る由がなかった。
歌苗は宙をさまよわせていた視線を綾音に戻した。
「人の気持ちなんて、後でどう変わるか分からないものよ」
「そうね。〈嫌い〉が〈好き〉になっちゃうくらいだものね」
綾音は肯いた。
「当然、その逆もあるわね。――私は知らないけれど」
「知りたくもないわ、そんなこと」
綾音が顔をしかめて言う。
「でも、そっちの方が確率としては高いんじゃない?」
「まあ、そうかも知れないけど」
「いずれにしても、私にとっては済んでしまったことに変わりはないわ」
歌苗の瞳が虚ろな光を宿す。
「歌苗さん……」
「いいの。いいのよ……。どうせ私は時間の中に置き去りにされた身だもの。今さら、何も取り返すことなんて出来やしないのよ」
「そんな……」
綾音は何と言えばいいのか分からず、言葉を失くして瞳だけで歌苗に訴えかけていた。
「この世界で変わらないものなんて、何ひとつないのよ」
歌苗は低い声で言った。
「そんなことない! そんなこと、絶対にないわ!」
綾音は自分でも当惑するほどに、必死で反論した。
「どうして? 学校も、私がささやかな幸せを分かち合った場所も、すっかり変わってしまったのよ」
「でも、ここは昔のままじゃない?」
「ここも、私がいたときから較べたら随分変わってしまったわ。所詮人間の造ったものよ。変わらないはずがないわ」
それは綾音にも納得出来た。以前歌苗と共に見たかつての校舎の華やぎは、今は見る影もなく褪せてしまっていたからだ。
「じゃあ、自然のものは? 空や海、樹や花は変わらないわ。星は? 太陽は? 月は? 変わらないものだって、あるじゃないの」
その言葉に、歌苗は静かに首を横に振るばかりだった。
「どうして……」
「自然は――宇宙は、もっと長い時間をかけて変わってゆくわ。私たちにはとても想像出来ないほどの、長い時間をかけて……」
「でも……」
「それが、自然の法則よ」
ふたりは恐ろしく長い沈黙の時空をさまよった。まるで、どちらかが口を開けば総てが壊れてしまうかのように、互いの瞳を見つめ合ったまま。
微かに埃が舞っている。それは弱い光を受けて、まるでダイアモンド・ダストのように輝いていた。
「歌苗さん――」
その重苦しさに堪えられなかったのは、綾音の方だった。「あなたは、何も変わっていないんでしょう?」
綾音は、なおも沈黙を守っている歌苗を見つめ続けた。
「私は――」
ようやく歌苗が静かに口を開いた。「あなたには、そうとしか見えないでしょうね。――でも、少なくとも綾音さん達に見えるようなかたちでは、変わりようがなかったのよ」
「何故なの……?」
「私は……、自分自身の現実を、すでに喪ってしまった存在だから……」
「……」
綾音は、その意味するところを半ば理解出来るような気がした。しかしそれは、不透明な水底を探るように混沌としたままで、いつまで経っても鮮明には掴めないのだった。
「私の現実は、この文字盤の上で繰り広げられる、出口のない“時”の造り出す幻影に捉えられてしまったのよ」
「そこから、抜け出すことは出来ないの?」
歌苗は頷いた。
「どうしても?」
「……」
歌苗は黙して見つめ返すだけだった。
「もし、この時計が壊れてしまったら?」
「さあ……。どうなるんでしょうね。少なくとも、この時計の針のような、時間の“堂々巡り”からは解放されるとは思うわ。でも、それからどうなるのかなんて、私には分からない」
「それって、時間が停まるっていうこと?」
「……」
「ねえ――」
綾音は言った。「歌苗さん、いつか言ってたよね。時間が停まれば総てがなくなるって。だとしたら、あなたも消えてしまうの?」
ふたりの間に、再び沈黙が流れる。
「ねえ……。現実って何なの? 私達が、今こうして会ってるっていう現実も、私が生きている現実も、時間が停まればその時点でお終いなの? ねえ、答えてよ」
「それは――」
歌苗が哀しげな表情で言った。「あなたにも、解っているはずだわ」
「私は何も知らないわ」
「いいえ、解っているわ。でも、それを認めたくないだけなのよ」
「そうだとしても、私の質問の答えにはなってないわ」
「そう……。でも、綾音さん――あなたは完全な記憶を持てる自信があるの?」
「え?」
それまで問いかける一方だった綾音は、歌苗の突然の質問に返す言葉が見つからなかった。
「あなたが現実だと思っている“現在(いま)”は、実際には恐ろしい速さで未来へと向かっているのよ。後に残されたものは総て思い出の蓄積の中に埋もれてしまうのよ」
歌苗は言葉を止めて、綾音の瞳を真正面から見据えた。
「人は、過ぎ去った“現在”を一旦記憶の中にしまって、その汚い部分が時の流れで洗われるのを待つの。そして後で取り出しては“綺麗な思い出”として楽しむんだわ」
「そんな……」
「あなたにも、心当たりがあるはずよ」
「でも……」
綾音は懸命に反論を試みようとしたが、それ自体意味を成さない言葉の断片しか思い浮かばなかった。
「現実なんて――あなた自身が信じているほど確かなものじゃないわ。……現実は、砂のようなものだわ」
歌苗は瞳を伏せた。
「砂?」
綾音は怪訝な顔で、歌苗の伏せられた瞳を覗き込んだ。
「そう」
歌苗が顔を上げる。その表情は、必死に何かを訴えようとしていた。「総ては、指の間からこぼれ落ちる砂のように失われてしまうのよ。そして、たとえ手のひらの上で輝かなかったものでも、地に落ちて取り返しがつかなくなってから輝いたりする。――人は、それを思い出と呼ぶわ」
「でも――。でも、今は“現在(いま)”よ。歌苗さんの言っていることが、私にはよく解らないわ」
「そう、あなたの言う通り、今は“現在”よ。でも、その“現在”も、すぐに過ぎ去ってしまうわ。私と共に過ごした時間も、それが過去になった時点であなたはいずれ忘れてしまうのよ……」
「まさか……。私が歌苗さんを忘れるだなんて……」
綾音は悲痛な面持ちで言った。
「忘れはしなくとも、思い出になってしまう。私と違って、あなたは現実の世界の人間よ。人は自分の信じている現実で理解出来ないようなことは、すべて夢の中の出来事にしてしまうのよ」