時計
「うー。それを言われると、結構辛いものがあるのよね……」
綾音は苦笑した。
「ねえ、綾音さん。最近、いいことでもあったの?」
ふたりはあれからとりとめのない話をしていたが、ふとした拍子に歌苗がそんなことを言った。
「え? いいことって?」
「ええ。何だか最近、輝いて見えるわ」
「春が近いからなのかな」
綾音は、窓の向こうのまだ早い春の陽射しに視線を向けた。
「恋をしてるんでしょう?」
核心を突かれて、綾音は戸惑ってしまった。
「ね、そうなんでしょ?」
「……歌苗さんには、ほんと参っちゃう」
綾音は頭を掻いた。「私、そんなに輝いて見える?」
「ええ。まるで光の粉をまき散らしながら歩いてるようなものよ」
「なにも、そこまで言わなくったって……」
「ねえ、どんな人なの?」
歌苗が訊く。
「どんな人って言われてもねえ。そんなに、しょっちゅう会ってるわけでもないし……」
「忙しいのね」
「あと少しの間はね」
そうは言ってみたものの、綾音には今ひとつすっきりしないのだった。確かに、一志と会っていると楽しいし、一緒にいても違和感を覚えることもない。しかし、これが恋なのかと問われると、すぐには「そうだ」言い切れない綾音だった。
恋――それは、相手がそこにいるだけで、胸が締め付けられるように痛むものではなかったのか。その人に会うことが出来ない分だけ思いが募り、どうしようもなく甘くせつない底なし沼のような感情に自ら沈み込んでゆくようなものではなかったか。
一志とは滅多に会うことが出来ないから、そう思うだけなのかも知れない。しかし恋とは、人の心を一瞬にして強烈な光彩に包み込んでしまうものであったはずだ。
綾音は、一志を友達のように感じていた。けれども、圭子もそうだったが、周りの者に、「それは恋だ」と指摘されると、その思いは脆くも崩れてしまいそうになるのだった。
友情と愛情――。かつて、それについて友達と議論したことがあった。しまいには友愛などという言葉まで出て来て、結局結論は出なかったはずだ。綾音はあらためて、その議論を自らのうちでむし返していた。
綾音は、去年の暮れに圭子が言っていた言葉を思い出した。
「そうね。その通りかもね……」
「え?」
歌苗が、綾音の言葉の意味するところをはかりかねて、おかしな顔をする。
「ごめんなさい」
綾音は自分の思考にはまり込んで、傍にいる歌苗の存在を忘れかけていたのだった。「ちょっとね、思い出したことがあったの」
「何を思い出したの?」
「うん。男女の出逢いには、本人が思っているよりも厳しいものがあるって……」
それから綾音は、一志と出会ったときのことや圭子とのやりとりを、歌苗に語って聞かせた。歌苗はその話に頷き、微笑み、そして時には声をたてて笑った。
「そう言えば――」
綾音は思い出して言った。「歌苗さんにも、確かお付き合いしてた人がいたのよね」
「ええ――。でも、もう遠い昔のことだわ」
「どんな人だったの?」
綾音が訊く。
「優しい……。そう、優し過ぎるほどの人だったわ。私には、もったいないくらいに……」
歌苗は過去を見遙かすように、遠くに視線を投げた。
「街道沿いの神社の杜は、まだある?」
「え? どっちの?」
この都市の南にある師団がかつて出征する時に通った街道沿いには、神社が二つある。
「小さい方よ」
歌苗が言う。
それは、樹々が鬱蒼と茂った杜(もり)の中に小ぢんまりとした社殿をもつ神社だった。もう一つの方は結構名の知れたもので、観光名所にもなっている。歌苗が言った方は、せいぜい地元の人が散歩がてらに訪れる程度である。
小さい方の神社――それは、歌苗が密かに愛を語り合った場所なのだった。
「うん。あるわよ」
綾音は言った。「でも、公民館とか建っちゃって、随分開けてしまってるけどね」
「あそこは、私の思い出の場所なの」
「うん」
「あそこでしか、私達は会うことが出来なかったわ」
「でも、出逢ったのは、そこじゃなかったんでしょう?」
「ええ――」
歌苗は語り始めた。
春の光に充ちた、爽やかな日だった。
歌苗は、陽射しを反射して輝く水面を眺めながら川縁の道を歩いていた。
電車に乗らずにわざわざ歩いているのは、この季節の空気の暖かさが彼女にそうさせたからだ。それに歌苗は、この道を気に入っているのだった。
この川はいつも、季節というものを歌苗に感じさせた。南方で行われている戦争のことなどまるで嘘のように、川は絶え間なくのどかに流れて続けていた。
春になれば堤の桜が一斉に淡い桃色の霞のような花を開く。新緑、紅葉と季節の移り変わりを目に見えるかたちで教えてくれる堤の樹々は、冬が近くなるとすっかり葉を落としてしまう。そして、白い優雅な鳥が水面でその翼を休めるようになれば、もう雪が降ってもおかしくない時期だった。
川は、堤の上を走る電車からも見ることが出来る。しかし暖かさにつられて出歩きたくなるのは、何も虫や動物だけとは限らない。人の心も浮ついて、つい歩いてみたくなるのが春というものだろう。
この数日、雨が降らない限り、歌苗は毎日のようにここを歩いていた。
いつものように川縁の道を歩いていると、聞き慣れない音がすぐ近くから聞こえてきて、歌苗は辺りを見回した。
付近には、彼女ひとりしかいない。
と、歌苗は自分の立っている所のすぐ脇から始まっている緩い傾斜の下に、一人の若者がいることに気づいた。
「やあ」
若者は歌苗の姿を認めると、軽々しく声をかけてきた。
何? この人。見ず知らずの人に対して「やあ」は、ないんじゃないかしら――
歌苗は心中眉を顰めた。しかし――。
「そんな所で、何をしてらっしゃるの?」
心の裡とは裏腹に、口を衝いて出たのはそんな言葉だった。
「何をって? ちょっと……、こいつをね」
それは、ハーモニカだった。「天気がいいものだから」
そう言って彼は微笑んだ。その表情は眩しい春の光を浴びて、輝くように爽やかだった。
こんなところを誰かに見られてしまったら――。そうは思っても、歌苗は足早にその場を辞すことが出来なかった。
「そうですね」
歌苗は彼の言葉に肯いて空を見上げた。
「でも――」
若者はズボンのポケットにハーモニカをねじ込みながら、歌苗をまじまじと見つめた。
「あと一週間もすれば、雨が降るんです」
「どうしてだい?」
「桜が一番綺麗なときに、雨は降るから」
「無情の雨か……」
若者の瞳が、暗い色をたたえる。「哀しいことを言うね、君は……」
「そうかしら」
「そうさ。普通、桜の咲く前には、あまり言わないことだよ。まるで、人生に対する諦めのようにも聞こえる」
「……」
「いずれにせよ、あまり哀しいことは言うものじゃないね。特に、君のような人には、そんなことは言って欲しくない」
彼はそれまで腰を下ろしていた石から立ち上がった。そして歌苗のすぐ傍まで大股に上がって来て言った。
「僕は、もう行かないといけないから、これで失礼するよ」