時計
「なかなかのものね」
中に入るなり歌苗は言った。
「歌苗さんのおかげよ」
ふたりはあらためて、そこに展示された作品を見て行った。何度となくそれらのものは目にしていたが、これまで準備の方に気を取られていて、一つ一つを堪能する余裕などなかったのだ。
「昔なら、こんなものはがらくた同然の扱いだったでしょうね」
綾音がオブジェの一つを指さして言った。
それは、昔でなくとも充分にがらくたとして通用する代物だった。
「そうね。でも、解るような気もするわ」
「どういうふうに?」
「これは、時間の化石じゃないのかしら」
「化石、ね…」
綾音は呟いた。そう言われれば、そんな気もする。何しろそれは、粘土と目覚まし時計が合体したようなものだったからだ。
「歌苗さん」
綾音が、視線を歌苗に戻す。「あなたは、どんな絵が好きなの?」
「私? そうね――。ルノワールとかラトゥールなんかいいわね。それと教会の壁画とか」
恍惚とした表情で、歌苗は言った。
「ふうん。日本画は?」
「あまり好きじゃないわ。同じ古いものでも、未来性に欠けるような気がするの」
「未来性ねえ」
「それは民族性の違いから生じたものよ。けれども未来を見つめているのであれ、過去を振り返るのであれ、それを突き詰めれば、どちらも同じものに行き着くことに変わりはないわ」
「同じものって?」
「虚無よ」
歌苗は事もなげに言った。
「どうして、虚無なの?」
「時間が生まれる前も、それが無くなってしまった後にも、そこには虚無があるだけだからよ。時間のないところには、もはや何物も存在し得ないわ」
「だとしたら、私たちはいずれ――」
「それは、言わないことよ」
綾音が口にしようとした恐怖に満ちた言葉を、歌苗は優しく制した。
生命――いや、自分の知り得るあらゆる存在が未来という名の虚無へと突き進むさまを、綾音は想像した。
「時間がなくなると、総てが喪われる……」
歌苗は呟いた。
明るい光が絶えずふたりを照らしていたが、綾音は暗黒の宇宙をあてもなく彷徨っているような錯覚にとらわれていた。
「これが、綾音さんの絵ね」
歌苗の言葉で、綾音は流砂のように深みへと陥ちてゆく思考から解放された。
そこには、綾音の作になる絵があった。
それは時間という概念を念頭に置いて描かれたものとはとても思えなかった。
真っ青な空、果てしなく広がる緑の草原、そして、地平線……。深紅の花が、その前方右に一輪だけ描かれている。
「この花は、綾音さんね」
歌苗が言った。
「私? その花が?」
思わず綾音は訊き返した。
「そうよ。絵には大抵その作者自身が描かれるものよ。形を変えてね。――それにしても、よく描けてるわ。他のどれよりも、時間について表現出来ていると、私は思うわ」
「これが……?」
綾音は自分の絵を凝視した。
その草原からは、金粉をふりまいたように、輝く粒子が空へと舞い上がっている。これは、綾音が久々に手を抜かずに描いたものだった。「私、時間について深く考えたことなんてなかったのに……」
「でも、今は考えるようになったのね」
「どうして? 先刻、人を好きになるのと同じだって、歌苗さんは言ってたでしょ?」
「同じだとは言ってないわ」
「だって……」
「その後よ」
「ああ――」
綾音は思い出した。
人を好きになって、その人のことをもっと知りたくなる。それと同じようなものだと、歌苗は言ったのだった。
「あなたはね、鍵を開けてしまったのよ」
「鍵?」
「そう。時間についての知識のね」
そう言うと、歌苗は絵の中の草原を見つめた。まるでそこに開いた窓から、実際に無限の草原を見遙かすような瞳だった。
「私の心の中に、それは最初からあったっていうこと?」
「そう。でもそれは普通、記憶の底に封印されて眠っているのよ」
「封印? どうして?」
「それが、とても恐ろしいことだからよ」
「恐ろしい、こと……」
歌苗に倣って、綾音もその絵を見つめた。「時は虚無から生まれ、虚無に還る……」
歌苗が呪文を唱えるように言う。感情を殺したその声は、それを聞く者の恐怖心を呼び起こさずにはおかなかった。
「……」
「その事実を恐れるあまり、人はその記憶の扉を閉ざしてしまったのよ」
「要するに、目をつぶったのね」
歌苗の言わんとするところを、ようやく理解した綾音だった。
「そう」
「それを開けたら、どうなるの? もう一度、閉めてしまうことは出来ないの?」
「出来ると思う?」
逆に問い返されて、綾音は口に出して答える代わりに静かに首を横に振った。
「人は、生まれてから少しずつ、いろんなことを覚えてゆくわ」
歌苗が穏やかに切り出した。「でも、それはまだ知らないことに関してよ。綾音さんの開けてしまった鍵は、知っているのに封じ込められていた記憶のものなのよ。それは堤防みたいなもの。もし破れてしまったら、どうなるか――。綾音さん、あなたにも分かるでしょう?」
綾音は、ゆっくりと頷いた。
「ねえ、〈おぼえる〉と〈さめる〉が同じ字だということの意味を、よく考えてみて」
確かに、それらは共に「覚」という字を書く。当たり前過ぎて、特に気に止めもしないことだが。
「――ずっと押し込められていた記憶が一旦解放されると、それまで築き上げてきたその人の人格まで押し流してしまうことにもなりかねないわ」
「でも、私は……」
「そうね。綾音さんがそうならずに済んだのは、それを開けたのがあなた自身ではなく、私だったからかも知れないわね……」
そう言うと歌苗は再び、描かれた草原の方に視線を投げた。
ふたりはそれきり何も言わなかった。ただ黙って草原を見つめるばかりだった。
無限の草原……、そして地平線――。それを見つめる花が、綾音自身だという。そして、その自分自身を見つめる彼女が、ここにいた。 いつしか綾音は一人になっていた。教室は暗く、校庭を照らす青い光の残滓だけがその絵を浮かび上がらせていた。
そして、花の描かれたちょうどその場所に、彼女自身の影を黒々と滲ませているのだった。
「嘘でしょ。ねえ……」
話し終えて今は黙り込んでしまった綾音に、圭子が言った。
綾音が、静かに頭(かぶり)を振る。
「嘘……」
圭子は繰り返した。
綾音は黙したままだ。
「ねえ――」
圭子がひきつった笑みをたたえる。「悪い冗談はよしてよ……」
綾音は憐れな者を見るような目で、圭子を見つめるばかりだった。
「……」
「嘘だと……思う?」
かなりの時間が経った頃、言葉を失くして今は黙るしかなくなった圭子に、綾音は言った。
秋の夕照はすでに消えて、西の空に微かにその名残をとどめるばかりだった。
「そうなんでしょ?」
圭子が懇願するような目で訊く。
綾音は答えなかったが、その瞳が真っ直ぐ自分に向けられているのを見て、圭子は深い吐息を洩らした。
「じゃあ……」
「そう」
綾音は、圭子に視線を据えたまま言った。「全部、本当のことよ」
「前から、知っていたの?」
綾音が頷く。
「いつから?」
「そんなに、昔のことでもないわ」
「あのとき……」
圭子は、ようやくそれに思い当たったのだった。あの、台風の日のことに。