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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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時計

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 それを待っていたかのように、圭子が前を向いたまま口を開いた。
「ん?」
「何があったの?」
 圭子は、綾音の方を向いた。
「……」
「最近の綾音、何だか変よ」
「そう……?」
 実際、綾音自身でも変だとは思っていた。それを圭子に言われて、なおさら変に思えてくる彼女だった。
「一体、どうしたの?」
「何が?」
 圭子は立ち停まった。
「綾音、はっきり言うわよ。何か、私に隠しごとしてるんじゃない?」
「……」
 二人して、舗道の真ん中で見つめ合う。
「水臭いよ……」
 寂しげな口調で、圭子は言った。
「ごめん……」
「責めるつもりはないわ。そうするだけのことが、綾音にはあったんでしょう?」
「……」
 綾音は目を伏せた。
「占いの結果が乱れたのも、そのせんなんじゃない?」
 綾音は微かに頷いた。
「やっぱり……」
 溜め息混じりに圭子は言った。
「圭子……」
「いいのよ。今、話さなくたって」
「そんなんじゃないの」
「じゃあ……」
「いいから!」
 綾音の語気に、圭子は言葉を呑み込んだ。「いいから聞いて。――べつに、隠してたわけじゃないのよ。ただ……」
「ただ、何?」
「ただ……、笑われそうで……」
「笑う? 誰が? 何を笑うのよ」
「だって……」
「そんなに、とんでもないことなの?」
 綾音は黙って、圭子の瞳を見つめ返した。
「いいわ。約束する。絶対に笑わないから」
 遠くで信号が、また青になるのが見えた。
 しかし二人はそこに留まったまま、すでに帰るべき道を失ってしまったかのっように立ちつくしていた。

 学園祭前日のことである。
 廊下の時計が綾音を急かすように時を打った。
 七時。
 まだ、わずかながら残っている生徒もいると見えて、所々に灯りのついた教室がある。
 最終的な仕上げは明朝に回すとしても、今日中に内装のほとんどは済ませてしまわねばならなかった。
 綾音は一人だった。
 先刻までいた何人かの一年生は、先に帰してしまっていた。後は一人でも出来ることだったし、それに綾音にはある予定があったからだ。
 歌苗の希望もあって、ふたりで学園祭の準備を進めてきた。いろいろと山積していた問題を克服し、何とかここまでこぎつけられた。そして本番を明日に控えた今夜、その会場を案内して回る約束をしていたのだった。
「もうちょっと待ってて。これだけは、やっておかないといけないから」
 綾音はカッターで画用紙を切りながら、口の中で呟いた。
 実質的に、綾音はここの責任者になっていた。明日も朝早くから出て来なければならない。少々の遅れも計算に入れて、出来るだけ多くの仕事をこなしておきたかった。
 ひとつ、またひとつと教室の灯りが消えていった。
 時計が八時を報せた。
 廊下で足音がする。しばらくして、美術部顧問の教師が顔を出した。
「何だ。基松ひとりか」
 内装の大方終わった展示室を見て、大椴(おおとど)は言った。彼の名は非常に覚えやすい。何しろ、その名の通りトドのように太っているからだ。
「もう八時だぞ」
「もうすぐ終わると思いますけど」
「そうか。あんまり遅くなるなよ」
「はい」
「――明日が楽しみだな」
 大椴はもう一度室内を見回して、満足げに言った。
 大椴が出て行くと、綾音は手近の椅子に腰を下ろして溜め息をついた。
「もう、いいかな」
 疲れていないとは決して言えなかった。
 荷物をまとめて灯りを消す。校庭からの光があるので意外と明るい。まるで満月の夜のように、あらゆるものが青白く沈んで見えた。
 廊下に出る。
 時計の音――。
 澱んだ空気が微かに震える。
「歌苗さん」
 綾音は囁きかけた。「お待たせ」
 文字盤が明るい青緑色(ターコイズ)に輝き、その後ろから歌苗の小柄な姿が現れた。実際にはこの時計は壁に固定されており、後ろには鼠一匹通れる隙間もない。
「終わったの?」
 歌苗が訊く。
「うん。後少し」
「ご苦労さま」
「何言ってんのよ。歌苗さんがいなかったら、今頃どうなってたか」
「そう言ってくれると、とっても嬉しい」
 二人は微笑み合った。
「じゃあ、行きましょうか」
 綾音は促した。
 薄暗い廊下をふたりは歩いて行った。ほかの校舎とは違い、ここには傘のついた裸電球があるだけだ。
「暗いね」
 綾音が言う。「これじゃ、何も見えないよ」
 途端に、窓の外に眩しい光が溢れた。
「時間を停めたの?」
「違うわ。私には、そんなこと出来ないもの」
「いつものやつね。歌苗さんが意識してやってるの、知らなかった」
「そうでもないわ。ただ、私には時間があってないようなものだから」
「わからない」
「すべての季節、すべての時間の光を同時に見ることが出来るだけよ」
 そう言われてみれば、どこか白々とした光は熱を帯びていないようにも思えた。そして、陰になっている部分が少ないということも。
 色鮮やかな立て看板や青いビニールシートを被せられた模擬店の器材が、その光の下でうずくまっている。透明な光に晒されて、あまりにもたくさんのものがそこに佇んでいた。白昼の明るさの中で、それらは奇妙に色褪せて見えた。
 人のいないさまざまな展示室を見て回り、ふたりは渡り廊下を歩いていた。
「きっと、賑やかなんでしょうね」
 歌苗が言う。
 明日の昼ともなれば、ここは多くの人で埋め尽くされる。しかし今は、あらゆるものがうち棄てられたもののようにさえ見えた。それはまるで、生きたまま廃墟と化した遺跡のようでもあった。
 未来の遺跡――。
 綾音はふとそんなことを思って身震いした。
「どうかしたの?」
 歌苗が、それを見て訊いてくる。
「うん。ちょっとね……」
 綾音は今しがた感じたことを素直に話した。
「なるほどね。それは言えるかも知れないわね」
「どうしてなのかな。こんなこと、考えるつもりはなかったのに」
「でも、考えちゃったんでしょう?」
「うん。そうなんだけど……。歌苗さんと出会う前は、こんなこと思いもしなかったのに」
「簡単なことだわ」
「何が?」
 綾音が訊く。
「もし、綾音さんが何かに興味を持ったとしたら、あなたはどうする?」
「どうするって……?」
「じゃあ、どう思う?」
 歌苗は、真っ直ぐに綾音の瞳を見つめて言った。
「……興味があったら、もっとそれを知りたいと思う」
「ね」
 歌苗が言う。「そう思うでしょ。例えば好きな人のことを、もっと知りたいと思うとか」
「うん」
 そう答えながらも、綾音は怪訝そうに歌苗を見つめていた。ふたりは元いた美術室に向けて歩を進めている。
「――それと、同じことよ」
 歌苗はそう言ったきり、口をつぐんでしまった。
 ふたりは、ただ黙々と歩いた。様々な展示室の場所を知らせる矢印の書かれたポスターが、無秩序に壁に貼られている。ふたりは、そのほとんどの矢印とは逆の方向に向かっていた。ただ、(美術部特別展示『時間』の会場はこちら)と書かれた案内に従って。
 綾音は、先刻歌苗が言っていた言葉を心の中で反芻していた。しかし綾音は、過去に時間について知りたいと思ったことなど一度もないのだった。
 そう、ただの一度も……。
 二人は美術室前に戻った。扉は、綾音が開け放した状態のままだ。
作品名:時計 作家名:泉絵師 遙夏