時計
7. ふたりだけの学園祭
「どう? そっちは」
「うん。まあまあってとこね」
「何だか、やけにニヤニヤしてるじゃない」
「そう?」
「あ、そうか。彼氏が来てるんだ」
学園祭当日。
各所で交わされるそんな会話を後目に、綾音は混み合った廊下を意味もなく歩いていた。学校内は普段見られないほどの活気で満ちている。まあ当然と言ってしまえばそれまでだが、とにかくこの日だけは学校公認で男の子を呼んで来られるのだから、女の子としては張り切らずにはいられない。
「彼氏、か……」
誰にも聞こえないほどの低い声で、綾音はふてくされたように呟いた。
なるほど、そう言われてよく見ると、保護者と見られる少々疲れ気味の中年の人たちに混じって、それらしい組み合わせがちらほら見受けられる。
「綾音!」
不意に誰かに呼ばれて、綾音は振り返った。しかし、彼女を呼んだらしい人物は見あたらなかった。
「綾音! こっちよ。こっち!」
その声は、扉も窓も開いたままになっている教室の中から聞こえてきた。
「何だ、美依(ミイ)か。――暇そうね」
教室の奥の椅子に、島松美依子が一人で座っていた。この部屋には彼女だけしかいない。「そんなこと言ってないでさ。ちょっと寄って行きなよ」
美依子(みよこ)が手招きする。綾音も他にすることもないので、それに応じることにした。
「相変わらずね。ここは」
整理されて、やたらだだっ広くなってしまった教室を見渡して、綾音は言った。
ここは、図書クラブがやっている古本即売会の会場である。前の廊下には絶えず人が往き来しているのに、ここだけ忘れられたように閑散としていた。コの字形に並べられた机の上に、一応ジャンル分けして本が陳列されている。それらは、見る人もなく窓からの微風に晒されていた。
「どう? ひとつ、売り上げに協力しようって気にならない?」
「美依、いつから図書部に入ったのよ」
綾音は逆に訊き返した。美依子は、本当は水泳部員である。
「今だけよ。限りない奉仕の精神ってやつね」
臆面もなく、美依子が言う。
「よく言うよ。恥ずかしくない?」
綾音は呆れて言った。「どうせ、めぼしいのは全部、美依がせしめちゃったんでしょ?」
「まあね」
美依子は口元だけで笑った。
「ちゃっかりしてるんだから……」
美依子が、こんな場所の番をタダで引き受けるはずがなかった。彼女はこの仕事を肩代わりするに当たって、気に入った本をバイト料として貰うことを条件にしたに決まっていた。図書部には目下部員が二人しかいないため、それを呑まざるを得ないと言うわけだ。彼女たちとて、学園祭の全ての時間をこんな場所で潰したくは決してないからだ。
「ねえ」
綾音が言った。手には三冊ばかりの本を持っている。「これ――」
「買ってくれるの?」
「私にも、ここ手伝わせてよ」
「綾音……」
美依子は言った。「どっちが、ちゃっかりしてるんだか!」
「お互いさまよ」
そして二人は、顔を見合わせて苦笑したのだった。
その頃、圭子は美術室の前にいた。
「綾音ったら、どこへ行ったんだろう」
圭子は生徒会での自分の当番が終わり次第、綾音と一緒に模擬店などをひやかしに行く約束をしていたのだ。
美術室の前まで行くと、父兄らしい人が数人出て来て、彼女は驚いた。そして、中へ入って圭子はさらに驚くことになる。
展示会場のこの部屋には、観客が五、六人いた。これは、例年の美術部展示室の静けさを思えば充分に驚きに値した。
「へえ、やるもんね」
圭子は感心した。
部屋の隅では、三人の一年生部員が話し込んでいる。しかし、肝心の綾音の姿は見当たらなかった。
圭子はその中の一人に訊いてみた。綾音は一時間ほど前に交代して出て行ったきりだという。
あらためて圭子は会場内を見回した。カーテンやベニヤ板を使わずに、イラストボードに描かれた作品が直接に壁の代わりをしている。それを固定しているのは、昨年までの廃材に色を塗ったもので、少しの予算で何とかなるよう、綾音が知恵を絞ったことが窺えた。
今年の展示にはしっかりとしたテーマがあるため、ある種の秩序のようなものも感じられた。
今回の一件では、さすがに三年生も舌を巻いたようだった。
一通り見ても、二〇分も経ってはいなかった。この人出では、下手に捜そうとすれば却って行き違いになってしまいかねない。
圭子は一年生とともに椅子にかけて、綾音の帰りを待ったのだった。
「ごめん!」
「もういいってば…」
圭子は苦笑した。
帰り道。夕陽が長々と舗道に影を作っている。二人の頬はほてったように淡いオレンジ色に染まっていた。
綾音はあれからゆうに一時間以上経って、ようやく美術室に現れたのだった。それは、学園祭第一日目が終わる半時間ほど前だった。
「いいじゃない、もう。目的は達したわけだし」
圭子が言う。
「でも……」
綾音は複雑な気持ちだった。
「あのこと、気にしてるの?」
二人はあの後、とある教師の占いコーナーへ行ったのだった。
学園祭の目玉の一つに、教師の占いコーナーがある。かなり早くから並んでおかなければ自分の番が回ってこないほどの盛況ぶりでも有名だった。何でも、噂によると恐ろしいほどよく当たるらしいのだ。
すでに会場がひけてから、二人は特別に占ってもらったのだった。圭子は生徒会役員のため、早くから並ぶことなど出来ないからだ。まあ、特権と言ってしまえばそれまでだが。
まだ二年生で、進路についてそれほど悩むことのない二人は、当然のことのように“恋愛について”みてもらった。
圭子は結果を聞いて、ほとんど舞い上がらんばかりだったが、問題は綾音の方にあった。
周知のように、タロット占いというのは占ってもらう人が、何を占ってほしいかを明確にしないと極めて曖昧な答えしか出ない。
綾音の結果は、とてもじゃないが恋愛についてのものとは思えなかった。
「恋っていうのは、人生に重大な影響を及ぼすこともある。もし、今の時点で恋よりも強く君の心を占めているものがあるとすれば、占いの内容がそれに取って代わられたとも考えられる」
その教師の言葉が思い出された。
綾音には、それが何であるか分かっていた。
確かに、何を占うかと訊かれたとき、「恋について」と答えはしたのだ。彼女も恋はしたかったし、憧れてもいた。
しかし今、綾音の心を占めていたのは、もっと別のことだった。彼女の心を捉えてやまないもの――。それは、歌苗の存在だった。
歌苗と出会ってからというもの、それまで考えもしなかったことに思いを馳せるようになった。時間、そして空間やその中の存在について……。過去について思い、未来について考え、現在において行動する存在を……。
綾音はあの少女と出会うまで、そんなことに思いを巡らせることなどなかったのだ。
――夕陽に染まった舗道の向こうで、信号が青になる。
いつもなら少しでも早く帰ろうとして駆け出しているところだ。しかし、どちらもそんな素振りも見せなかった。二人の歩調が緩くなる。まるで、その信号にたどり着くのを遅らせようとしているかのように。
信号は黄色になり、再び赤に戻った。
「綾音……」