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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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時計

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 思った通り、歌苗は寂しげな顔をした。
「それで、綾音さんが謝ったわけが分かったわ。――でも、気にしなくていいのよ」
 そして、静かに微笑んだ。
「私も、やってみたかったな……」
 しばしの沈黙の後、歌苗は遠くを見るような目をして言った。
 綾音は目頭が熱くなるのを禁じ得なかった。
「ねえ、聞いてくれる?」
 歌苗が言った。
 綾音は声を出すことが出来ず、黙って頷いた。
「私のときにはそんなものはなかったけど、昔は創立記念祭というのがあったらしいわ。私の時も、確かに、創立記念日はあった。でも、それは校長先生や偉い人の訓示があっただけ」
「私は……」
 歌苗の話が途切れるのを待って、綾音が口を挟んだ。しかし、それ以上言葉を続けることは出来なかった。
「いいから話させて」
 静かだが、強い口調で歌苗は言った。
「私はね、戦争なんてどうでもよかったのよ。内南洋で戦艦を何隻沈めただの、敵機を何機墜としただの、そんなことどうでもよかった」
 その気持ちは、綾音にもよく解った。それが同じ年恰好の少女の口から語られるだけに、痛切に心に沁みわたるものがあった。
 どのような時代でも、人は自らに与えられた時を生きてきた。歌苗が生きた時代は、たまたま戦争をしていただけのことなのだ。
 戦時中という言葉から、人は暗雲たちこめる都市の、鬱々たる情景を想起しがちである。しかし、空は今と同じように青く、川には澄んだ水が流れ、風の爽やかな日もあったのだ。そして何よりも、そこには人々の――そう、生きた生身の人々の営みがあったことを忘れてはならないのだ。
 人はみな、現在(いま)を生きている。誰かが“過去”と言うとき、それは連続した“現在(いま)”の、すでに過ぎ去ってしまった部分の総称でしかない。時とは“現在”の絶え間ない連続でしかなく、あらゆる主体は“現在”以外の時間に存在することは出来ないのだから。
「向こうの人達にも命はあったのよ。家族や、その人の夢も。同じ人間なのに、どうしてわざわざ殺し合いをするの? ねえ、おかしいと思わない? ――そりゃあね、撃たなきゃ自分が殺されるわ。だから撃つ……。でも、何のために? お国のため? 違うわ。そんな大義名分は、殺し合いの最中では何の役にも立たないもの。自分が――、自分が殺されたくないからよ。ねえ。考えてみて。自分が望んだわけでもないのに死にに行って、殺されたくないから撃って、そして最後には殺されるのよ。ねえ、戦争って何なのかしらね?」
 おそらくそれは、戦争という巨大な破壊行為に巻き込まれた人々の、心の叫びに違いないと綾音は思った。
 しかし何よりも忘れてはならないのは、戦争を起こすのは決して悪魔などではなく、人間だということである。過去に繰り返されたあらゆる残虐な行為は、総て人間の手によるものだということを、私たちは深く認識しなければならないのだ。その残虐性を、「残虐」という言葉だけで覆い隠すことは、それ自体が歴史の上で大きな罪になるということを、人間は早く気づかなければならない。言葉自体には、元来何の罪もないのだから。
 重苦しい沈黙が、ふたりの間を流れた。
「ごめんなさい。私……」
 ようやく少しばかり落ち着きを取り戻した歌苗が言った。
「いいのよ……」
 歌苗の心に火を点けたのは綾音だった。歌苗を責める資格など、綾音にはなかった。
「私はね、もっと生きていることを楽しみたかったの。もっといろいろなことをやってみたかったの……」
「ええ……」
 綾音は、それだけ言うのがやっとだった。
「ねえ――」
 歌苗が、まっすぐに綾音を見つめて言った。
「お願いがあるの」
「何?」
「私にも、やらせて」
「え?」
 綾音は、咄嗟にはそれが何を指しているのか解らなかった。
「私にも、学園祭をやらせてほしいの」
 今度ははっきりと歌苗は言ったが、綾音がその意味を理解するまでには少しばかりの時間が必要だった。そして、それに対する驚きの声を発するまでには、さらに数秒を要した。
「ええっ! い…今……」
「無理? ――でしょうね……」
「うん。いや――そんな……」
 綾音は何と言えばいいのか、返事に窮した。
「無理ね。やっぱり……」
 気落ちした声で、歌苗は言った。
「うん……。でも……」
「でも?」
「でも――」
 綾音は、歌苗の願いを何とかして叶えてやりたかった。しかし、どうすればそれが可能なのか思いつかず、言葉に詰まった。
「……」
「ごめんなさいね。無茶なこと言って……。でも、それは無理でも、お手伝いくらいはさせてくれる?」
「え? ええ。もちろん!」
 学園祭を諦めきれない歌苗のその言葉に、一も二もなく綾音は叫んだのだった。

 門は開いていた。遅くまで残っている教師がいるからだろう。
 綾音は校門脇の植え込みの陰に身を潜めていた。彼女が門に近づいたとき、ちょうど向こうから車が来たために、ここに隠れてしばらく待たなければならなかった。
 車のヘッドライトが、彼女のいる茂みをなめて通り過ぎる。
 その車は、玄関アプローチにやたらと長時間停まっていた。多分、誰かを待っているのだろう。その間、綾音は飛び出すわけにもいかず、苛々しながら車が出て行くのを待った。
 車の持ち主は、どうやらエイトマンこと体育教師のようである。
 ひっかかるものがあって、綾音がそのまま様子を窺っていると、彼が待っていたらしい人物が校舎から出て来た。建物の中が明るいせいでシルエットしか見えないが、歩き方などからしてそれが女性だということは判った。
 ――へえ……、エイトマンがね……。
 あの脳ミソ筋肉のエイトマンに女性の影。何とも週刊誌の見出しみたいな文句が頭に浮かび、綾音はひとり声を殺して笑った。
 綾音は、その影になった人物を見極めようとして身を乗り出した。小さな枝が頬をかすめ、思わず首を引っ込める。
 しかし、綾音は見たのだった。
 ロータリーに落ちる水銀灯の光。その光にほんの一瞬照らされた人物の顔は、この春に着任したばかりの新任教師のものだった。
 これは大スクープだ!
 綾音の心ははやった。
 こんなことが、噂にならないわけがない。これを知ったのは、彼女が最初に違いなかった。
 その新任教師は今年学校を出たばかりで、まだ高校生だと言っても通じるほどにあどけない顔をしていた。いつかみゆきが言っていた〈エイトマン=ロリコン説〉は、正しかったのだ。
 車が出て行ってしまっても、綾音はしばらくそこから動けなかった。
 ようやく植え込みから抜け出して、駅への道をたどり始めた彼女は、せっかく掴んだスクープをいつしか忘れていた。
 綾音は、歌苗との会話を思い出していた。
 ――歌苗は言った。
「何でもいいから、お手伝いさせて。……力仕事は無理だけど」
「そんなこと、最初(はな)っから期待してないよ」
「悲しいこと、言ってくれるじゃない」
 歌苗は、軽く綾音を睨んだ。
「無茶なこと、言い出すからよ」
「ごめんね」
「いいよ」
 綾音は笑った。
「でも綾音さん。何か考えてたんでしょう?」
 歌苗が訊く。
「考えてる途中で、寝ちゃったのよ」
「ああ――」
「ああ、とは何よ」
 今度は、歌苗が笑う。
「じゃあ――」
作品名:時計 作家名:泉絵師 遙夏