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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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時計

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6. 時間


「ねえ、今日は残れる?」
 綾音が訊く。
「ごめん。今はとても抜けられないの」
 圭子は、本当にすまなそうに言った。
「気にしなくていいのよ。忙しいのは分かってるんだから」
「そう。ごめんね。――じゃあ」
 圭子は言って、模造紙を丸めた筒を持って小走りに駆けて行った。
 綾音は、その後ろ姿が校舎の陰に隠れて見えなくなると、大きく溜め息をついた。
「仕方ないな。やるか……」
 綾音は中庭を横切って、薄暗い校舎の中へと入った。
 九月半ば。日中の暑さにはまだ厳しいものがあった。それでも空は、すでに夏の輝きを失い、同じ青でもどこか秋を感じさせる澄んだ色合いになっていた。
 二人が肝だめしをしたあの日から、まだ二週間ほどしか過ぎてはいない。
 この時期になると、生徒たちの話題に上るのはもっぱら学園祭のことである。まだ正式な準備期間に入ったわけではないのだが、その心はどことなく浮ついてしまっている。
 学園祭といえば劇や合唱などの他に、出し物をするクラスもあるし、展示をするクラブもある。中でも人気があるのは教師個人がする占いコーナーだった。しかし、それらは学園祭を構成する上での小さな単位であり、全体を総括して進めてゆくのは生徒会の役目である。
 クラスやクラブなどが別々に活動するわけだから、当然ひとりの人間がいくつもかけ持ちで首を突っ込まざるを得なくなったりもする。先刻の二人の会話は、まさにそういう者同士のものだったのである。
 綾音は自分のクラスと美術部の、圭子は生徒会と美術部をかけ持ちしていた。
「さて、今年は何をやるかな……」
 机の上にノートを広げて、それを鉛筆で叩きながら綾音は呟いた。
 紙面はまだ白紙のままで、鉛筆の当たった部分だけが黒く汚れている。鉛筆は、4Bだった。これでは何度も叩くと紙が真っ黒になるのもやむをえまい。そして、広げられたノートはクロッキー帳である。それらを使っているのには特に意味などない。ただ、強いて言うならば、そうすることによって何かいいアイデアが浮かんでくるように思えたからだ。
 しかし、その考えは甘かったようだ。綾音は音をたててノートを閉じると、大きく伸びをした。
 圭子と別れて、小一時間は過ぎていた。
「みんな、無責任なんだから……」
 綾音が文句の一つも言いたくなる気持ちは分からないでもない。
 本当なら、美術部の展示などでこれほどまでに悩む必要はないのだった。先輩たちの言うように、「いつものこと」をしていればよかったのだから。しかし綾音としては、何か変わったことをやってみたかったのだった。
 すでに述べたように、第一美術室は旧校舎の一番奥にある。美術部は普段の活動でもここを使っており、学園祭の展示もまたこの場所だった。なんとも場所が悪い上に、あまり目立たないクラブのせいか、毎年展示会場は閑古鳥の巣と化しているのだった。
 綾音はクラブの名誉というほど大げさでなないにせよ、その状況を何とかして打開したかった。
 先日、そのことを三年生に話してみたところ、呆気なく責任を押しつけられてしまったのだった。
 先輩に対して大きなことを言ってしまった手前、今さら「やっぱり、いつものでいいです」などと言えない綾音である。
 しかし、圭子に対しては「無責任」と決して言えなかった。何故なら、綾音のその発言で、圭子はまたしても巻き添えを喰っているのだから。
 気がつくと、やけにぼんやりとした光に包まれていた。
「いけない! 眠っちゃったんだ!」
 綾音は慌てて立ち上がった。その拍子に座っていた椅子が大きく退がり、後ろの机に当たって激しい音をたてた。
 外はもう、完全に暗くなっていた。彼女を照らしていた光は、校庭にあるナイター設備のものだった。
 昼間、明るかったせいで、綾音は照明を点けていなかったのだ。大体彼女は蛍光灯というものが好きではない。
 今、明かりを点けるわけにもいかないだろう。ここに人がいることを、わざわざ知らせるようなものである。何か訊かれて、それを説明するのも厄介だった。たとえ、居眠りしていただけだとしても。
 綾音は窓から差し込む弱い光だけを頼りに荷物をまとめると、扉へと向かった。
 鍵は案の定かけられているが、内側からなら鍵がなくとも開けることが出来る。ただ、出た後でもう一度かけ直すことは出来ないが。
 古い建物なので、一気に開けると大きな音をたててしまう。綾音はまず細めに開けてみて誰もいないのを確かめる。そして、なるべく音がしないように自分が通り抜けられる幅だけ開けて、廊下へとすべり出た。
 後ろ手に扉を元通り閉めると、綾音は息をついた。悪いことをしていたわけでもないのに。
 夜の学校は、やたらと寒々としている。友達何人かと日が暮れるまで残ったことはあったが、こうして一人で見る学校は怖いほどに静かで、見ている者を震え上がらせる一種の寒さがあった。
 普段、大勢の人がいて賑やかな場所ほど、そこから人が去ってしまうと却って寂しさが際立ってしまうのかも知れない。
 門は開いているだろうか、などと考えながら一歩を踏み出した時、彼女のすぐ脇で荘厳な音が鳴り響いた。
 綾音はひきつった悲鳴を洩らし、その場で棒立ちになった。
 それが何の音であるかに気づくと、綾音は苦笑混じりに溜め息をついた。
 ――何だ……。
 それは、時計が時を報せる音だった。
 七回鳴って、それは止んだ。
 七時――。
 後は、時を刻む乾いた音だけが、廊下の奥の闇へと吸い込まれていった。
 綾音は、文字盤を軽く睨んだ。
「びっくりするじゃない」
 しばらくの間(ま)。
 綾音は待った。
 文字盤を覆う丸い硝子が淡い光彩を放ち、やがてそれが消えると少女の顔が現れた。
「元気だった?」
 幽霊に対して「元気か?」と聞くのもおかしなものだと気づいて、綾音は悟られない程度に舌を出した。
「どうしたの? こんな時間に」
 歌苗が、透き通った声で訊く。
「知ってるんでしょ」
「まあ、ね」
 歌苗が含み笑いした。
「いじわる」
 綾音は少し睨んでやった。そして、廊下の奥へ視線を向ける。
「大丈夫よ」
 歌苗が、それを見て言った。
「また、時間のポケット?」
 歌苗が微笑む。
「じゃあ、心配いらないね」
「ねえ。何をしていたの?」
「居眠り」
「そうじゃなくて――」
 じれったそうに歌苗は言った。
「ほんとはね、学園祭の企画を練っていたの」
「ガクエンサイ?」
「そうよ。知らないの?」
 歌苗の顔は、それを知らないことを如実に物語っていた。それを見て綾音は即座に訊き返したのだったが、口に出してから、歌苗が学園祭を知らないのは、いわば当然のことだと気づいた。そう、歌苗の生きた時代は、戦争のまっただ中だったのだ。
「ごめんなさい……」
 綾音は、悪いことをしてしまった気がした。
「どうして謝るの? ガクエンサイって何?」
 綾音のそんな気持ちを知らない歌苗は、無邪気に訊き返してくる。
「うん……」
 あまり気乗りはしなかったが、一旦口にした言葉は今さら引っ込めようがなかった。
「お祭り――。学校祭って言ったら分かるかな。みんなが趣向を凝らして、劇とか展示とかいろいろやるのよ」
「楽しそうね……」
作品名:時計 作家名:泉絵師 遙夏