時計
「どうやら科学は、これまで蔑ろにしてきた問題に真剣に取り組むべき時がきたようね」
綾音は思い出した。みゆきの兄は大学で理系を専攻しているのだった。それで、彼女の口からそんな難しい言葉が出て来たのだった。
「だから言ったでしょう。何事も検証が大切なのよ」
何だか話がややこしくなってきた。
綾音は、このことに関しては、どうやら沈黙を守るしかないと思った。正直に話したところで、到底信じてはもらえないだろうからだ。圭子は、綾音の行動の全てを見ていたと信じている。ある意味ではそれは正しい。しかし、綾音は本来の時間軸の外にいたのだ。そこからそっと抜け出して、また元の時間へと戻るということを、綾音はしたのだった。圭子にとっての連続した直線的な時間は、綾音の場合、そこだけ大きく迂回しているのだった。
「でもね、問題があるの――」
みゆきが言った。「ひょっとしたら、綾音はその間の記憶を失くしてるかも知れないってこと」
「綾音が、記憶を……?」
「それに圭子だって、そうじゃないとは限らないわ」
「まさか……」
「だって、そうじゃない。圭子だって、記憶を失くしてまで、絶対に何もなかったって言い切れる?」
「そ…、そりゃあ――」
みゆきの言葉は、圭子の確信を大いに揺るがせたようだった。
「じゃあ、どうすればいいのよ」
圭子が腹立ちまぎれに言う。誰だって、お前の記憶はおかしいなどと言われたら、多少なりとも癇に障る。
「簡単なことよ。もう一度やってみるの。ただし、今度は私もまぜてもらうわ」
みゆきは、二人の気持ちなどお構いなしに、澄ました顔で言った。
「でも……」
「ここであれこれ議論しても、始まらないじゃない」
「じゃあ、いつやるの?」
圭子が訊く。「また台風が来るまで待つ?」
「今日やるの。即実行よ」
「出て来ないかも知れないわよ」
と、綾音。
「その時は、その時よ。もし出て来なくても、それも一つの結果として認めることね」
みゆきが、やけに分別臭いことを言った。しかし、歌苗に会えなかったとして、一番諦めが悪いのは、おそらくみゆきだろうと綾音は思った。
「やっぱり、夕方にするの?」
「もちろん。バスケ部やなんかが結構遅くまで練習してるし、怪しまれることはないわ」
そういうわけで、みゆきは手際よく段取りを決めていった。
「私は……」
綾音が言った。「私、行かない」
綾音は嫌だったのだ。あの歌苗が見世物のように扱われるのが。自分と出逢えたことをあんなにも無邪気に喜んでいた歌苗が、単なる好奇心の対象にされるのに耐えられなかったのだった。
「どうしてよ」
みゆきが言う。
「綾音が来なけりゃ、始まらないよ」
「嫌なのよ」
綾音は頑なに拒んだ。
「だから、どうして?」
「あれは実話だって、圭子も言ってたでしょ。あんなふうにして死んでいった人を興味本位で見に行くなんて、いけないことよ」
「だって、あの時は綾音も――」
「無理矢理にでしょ」
圭子の言葉を、綾音はすぐさま遮った。「見世物じゃないのよ。あの歌苗って人が、どんな思いで死んでいったか考えてみたことがある? もし、それが圭子だったらどう? 自分の死後、その憐れな姿をひやかされて、それでいいの?」
「そ、それは……」
そう問われれば、それでいいなどとは決して言えないだろう。圭子は、しばし無言で綾音を見つめた。
「綾音……。どうかしたの……?」
綾音の真剣な目つきを見て、圭子は不安をあらわにして言った。
結局、綾音に押し切られた形で、その計画は流れてしまったのだった。
圭子は、綾音のあまりの変わりように、ただならぬものを感じていた。あの明るくて能天気で、ほんのちょっとわがままなところのあった綾音は、一体どこへ行ってしまったのだろう。十年余りの間ずっと共に過ごしてきた圭子が、綾音のこの変化に気づかないはずがなかった。
圭子はしきりに同じ問いを胸の裡で繰り返していた。
何が、綾音をそんなにも変えたの?
そして――
「綾音、――私のせい……?」