時計
「い、いや。べつにさ……、どうだっていいじゃない。そんなこと――ね?」
いささか立場が悪くなってしまったみゆきである。
「そう、別にね……。無理にとは言わないけど。――どうせ、変な想像してたんでしょ?」
冷ややかに圭子が言った。
今は昼休み。あの後、三人で話し込んでいるところを例のエイトマンに見つかって、すっかりさぼっていたことにされてしまった。不本意なことで叱られて、綾音と圭子は少々不機嫌になっている。
「そんなことなら、私も誘ってくれたらよかったのに」
「でも、先刻自分でも言ってたじゃない。帰れなくなってまで、みゆきはやった?」
みゆきはそんな危険を冒してまで、首を突っ込むことはしなかっただろう。実際、二人の行動に興味津々でありながら、それを途中で放棄しているのである。
「まあね……」
「それにね、あんまり大勢で行っても、あちらさんがびっくりして出て来ないかも知れないじゃない? 二人くらいが、ちょうどよかったのよ」
「私は、本当は行きたくなかったんだけどね」
綾音が肩を竦めながら付け加えた。
「で? ――出たの?」
急に神妙な顔付きになって、みゆきが声をひそめた。
「さあ、どうでしょう」
圭子が曖昧に言った。
「あ、ずるぅい! 教えてくれたっていいじゃない。減るものじゃなし」
「まあ……、いいか」
圭子は、同意を求めるように綾音に目配せした。
聞かれてもいないのに、みゆきが「いいよ、いいよ、言っちゃって」などと言っていたが、圭子はそれを黙殺した。
「実はね――」
圭子が声を低めた。
「実は……?」
「うん、――あんたの歯にあずきが付いてる」
そう言って、圭子はみゆきの口を指さした。
「えっ?」
みゆきは何のことか分からず、しばし呆気にとられていたが、やがて慌ててポケットから鏡を取り出した。確かに、上の前歯にあずきの皮が付いている。つい先刻食べたあんパンのものに違いない。
それを小指の爪で取り除くと、みゆきは恥ずかしさの混じった声で言った。
「話をそらすな!」
「何よ。親切に教えてあげたのに」
圭子が、少しふくれてみせる。
「それとこれとは別。ねえ、どうだったのよ」
「分かってる、分かってる」
そう言いながら、圭子は笑った。「でもね、本当のところは私にもよく分からないのよ」
「分からないって?」
「うん。――綾音がね、教えてくれないの」
圭子が不満げに綾音をみる。
「何よォ。私にふらないでよね」
「でも、綾音は何か見たんでしょ?」
「それは、圭子だって見てたじゃない」
「じゃあ、あの花は一体どう説明するのよ」
「花?」
白熱してくる二人のやりとりに、とぼけたようなみゆきの声が割り込んだ。「花が、どうかしたの?」
「綾音はね、あの雨の最中(さなか)、一歩も外へ出てもいないのに、気づいた時には花を持ってたのよ」
「ふーん……。綾音、濡れてたの?」
「濡れてなんかいないよ」
それは、綾音が言った。
「じゃあ、綾音が取って来たんじゃないわね」
「当たり前よ。私は事の一部始終をこの目で見てたんだから。そんなこと、出来るわけないわ」
「でも、綾音は花を持ってた。うーん、これはミステリーね」
先刻まで傍で三人の話を聞いていた島松美依子が口を挟んだ。
「ミステリーじゃないの。オカルトなのよ」
圭子は、美依子の表現を訂正した。
「言っとくけど、私はそんなの信じないからね」
「まあまあ、ここはひとつ、ミステリーだかホラーだか知らないけど、検証してみないことには何も言えないんじゃない?」
これには、美依子も異存はなかった。
「では、私の見解を言うわね」
みゆきは皆を黙らせてから、口を開いた。
「ねえ、みゆきにはあれがどういうことだか解るの?」
圭子が、自信満々のみゆきに、少し不安げに訊いた。
「まあ、大体のことはね」
みゆきは頷いて言った。「――綾音は、実は会ったのよ」
綾音は何も言わず、ただ黙ってみゆきを見つめるばかりだった。
「で、でも、私は見なかったわ」
圭子が反論する。綾音からほんの数メートルも離れていなかった彼女には何も見えなかったのだから、無理もないだろう。
「珍しくもない話よ」
みゆきが当然のことのように言ってのけた。「綾音は、別の世界を経験したのよ」
それは、まさしくその通りだった。
「別の世界って?」
「よくある心霊現象の一つよ。圭子も知ってるんじゃない? 例えば――」
みゆきは真剣な顔で話し始めた。
その内容は、大体こんなものだった。二人の人が旅館に泊まっていた。夜中、そのうちの一人が幽霊に襲われる。その人は懸命に隣で寝ているもう一人を起こそうとするが、全然気づいてくれない。そして翌日、そのことで隣に寝ていた人を非難したところ、何とその人も同じ経験をしていたというのである。つまり、同じ時間、同じ幽霊に、全く同じ方法で別々に襲われていたというわけだ。
「――幽霊ってのは、まあ、時間を超越したものだから、そんなことも出来るのね」
綾音はそれを聞きながら、「違う」と思った。みゆきの話では、それを体験した人達の時間は、少なくとも進んでいたのだ。しかし綾音の場合、客観的には時間は停まっていた。それは、一瞬にして強烈な印象を心に焼き付ける一種の夢のようなものだった。
それに、時間が停まっていたとするならば、ずっと傍にいたにもかかわらず、圭子が「何も見なかった」と主張することの説明もつくのである。
時が停まってしまった場合、その時間軸に属する存在はそれを認識し得るだろうか。答えは「否」である。何故なら、それは思考をも含めたあらゆるものの停止を同時に意味するからである。だから、その後に再び時間が動き出したとしても、人はそれを絶え間ない時の流れとしか認識できないのである。
――どうして私は、こんなに難しいことを考えるようになったんだろう。これも、歌苗さんの影響なのだろうか――
綾音は、ぼんやりとそう思った。
「何を、ぼうっとしてるのよ」
「あんたのこと、話してんのよ」
圭子とみゆきの声が、激しく回転する思考から綾音の意識を呼び戻した。
「白状なさいよ」
「そうよ。何があったのさ」
二人が詰め寄る。
「私……、何もしてないよ」
何だか犯罪者にされたような気がして、綾音はそんな言い方をした。
「まあ……ね。あんたは、何もしてないかもしれないわね」
みゆきが少し落ち着きを取り戻していった。「でも、何かされたんじゃないの?」
「まさか!」
綾音は激しく首を横に振った。
「ちょっと、ちょっと。みゆきは先刻から完全に幽霊の仕業に決めてしまってるけど、何か根拠があるわけ?」
みゆきが話している間、とりあえずは黙(だんま)りを決め込んでいた美依子が言った。
「じゃあ、美依子の話も聞いてあげる。あんたは、このことにどんな見解を持ってるの?」
「私は……。そんなことは、あり得ないのよ。科学的じゃないわ」
「じゃあ、科学的でないことを立証出来るの?」
「そんな……。でも幽霊なんて、いるわけがないわ」
「美依子。量子力学って知ってる?」
「へ?」
突然の話の飛躍に、誰もが呆けたようにみゆきを見つめた。