時計
5. 嵐の後
あらゆる物音が一時(いっとき)に押し寄せてきて、綾音は一瞬、何が何だか分からなくなってしまった。それが雨の音で、今いる場所が旧校舎の廊下だということを思い出したのは、その半瞬後のことだった。
「綾音!」
圭子の呼ぶ声が聞こえる。
「綾音! 大丈夫!?」
「う…、うん……。大丈夫よ」
その声でようやく我に返った綾音は、はっきりしない意識の中で言った。
「何があったの?」
圭子が訊く。
「別に。何もないわよ。ほら――」
時計の方を目で示しながら、綾音は言った。
時計の文字盤にはオールドスタイル・ローマンの美しい数字があるだけで、そこには少女の顔などなかった。
その時、閃光が走り、その場にいた二人の顔を一瞬だけ青白く照らし出した。
「帰ろう」
綾音が言った。
「そうね。何もなかったんじゃ、もうここにいたって仕方ないものね」
そう言って暗い廊下を歩き始めた圭子だったが、その時、綾音の手に何やら握られているのに気づいた。
「綾音……」
「ん?」
「何? それ」
「ああ……」
そこには、薄紫の小さな花があった。綾音はそれを、今さらのように見つめた。
そう――、それは歌苗が自分との出来事を夢だと思わないようにと手渡したものだった。
綾音は時計を見た。四時五分――。歌苗が言っていたように、時間のポケットは通常の時間軸の枠外にあったのだ。あれだけの時間、歌苗と一緒にいたにもかかわらず、それが全くなかったものだと言い切ってもいいほどに、その分の時の流れは別のところにあった。
綾音は自分の腕時計も見てみたが、それも同じ時刻を示していた。何喰わぬ顔で秒針が小刻みに動いている。その小さな針の動きが、本来は見えない“時”の確実に過ぎてゆくのを物語っていた。
綾音は思った。他のものはともかく、自分のしているこの腕時計は、向こうにいる間中停まっていたのだろうかと。現に、他の時計と較べても同じ時間を指している。しかし、それで明らかになることは、綾音が過ごしたはずの時間は、もはや彼女と歌苗の記憶の中だけにしかないということだった。
人間は、非常に長い夢を短時間のうちに見るという。夢の中で長時間過ごしたとしても、現実にはほんのつかの間の居眠りだったりするのだ。そう考えると、歌苗が別れ際に手渡した花の意味も解るような気がするのだった。
綾音の頭は、歌苗との難解な話の余韻のせいで、まだ少しぼんやりとしていた。
「綾音――。綾音!」
「うん?」
圭子に揺さぶられて、綾音は生返事をした。
「どうしたの! やっぱり、何かあったんでしょ?」
綾音は、圭子の顔をまっすぐに見つめた。それは、圭子を黙らせるには最も効果があったようだった。
綾音は古時計に目をやると、それと分からない程度に小さく頷いた。
「さ、帰ろう。――また、雨に濡れたくなければね」
そう言うと綾音は、わけが分からず呆然としている圭子をそこに残したまま歩き出した。「わ……、分かったわよ。無理に誘ったことは謝るわ。だから、置いてかないでよ!」
そんなことを喚きながら、圭子は急いで綾音を追った。
「大声出すと、人に見つかるよ」
至極冷静な綾音の忠告に、圭子はまたしても黙るしかなかった。
時折雷光が閃き、雨滴が窓硝子を打ったが、綾音は振り向かなかった。
背後で、時計の時を報せる音が、ひとつだけ鳴った。
圭子は驚いて振り返ったが、そこにはまだ早い夕闇がうずくまっているばかりだった。
しかし、もしそれが綾音だったならば、廊下の奥に立って、去って行く二人を羨ましげに見送る歌苗の孤独な姿を見ることが出来たことだろう。
「もう! いやんなっちゃう!」
綾音は竹箒(たけぼうき)を放り出した。
「そんなこと言ってないでさ。さっさと終わらせてしまおうよ」
圭子が、それを拾い上げる。
日曜日は全くひどい天気だった。台風は、進路が少しばかり東にそれたものの、あちこちで被害が報告されていた。
今日は月曜日。一限目は体育だった。しかしグラウンドは使いものにならず、結局体育の授業は台風の後始末になってしまっていた。
「よりによって、うちのクラスが一番手とはね……」
綾音がぼやく。
「でも、割当て分だけやってしまえば、後は自由時間よ。考えようでは、これは儲けもんかも知れないわよ」
「一時間で終わると思う?」
「さあ……」
圭子が首を傾げる。「とにかく――、やってみるしかないんじゃない?」
「まあね」
綾音は一旦頷いた。しかし――。「でも、たかが掃除のために、どうして着替えなきゃいけないのかしらね」
「お答えしましょう」
おどけた調子で苗穂みゆきが、二人の間に割り込んで来た。「それは、ひとえにエイトマンがロリコンだからなのです」
そのエイトマンと呼ばれる体育教師は、何故だかいつも背番号「8」のラグビー・ジャージを着ていて、しかも昔のアニメのヒーローにそっくりなことからその名が付いたらしい。何でもそれは彼の大学時代から愛用しているものだそうで、一種のお守りだと本人は主張していた。
「何よォ、みゆき。勝手に人の話に入ってこないでよね」
綾音が文句を言う。
「あ、そんな言い方ってないんじゃない? わざわざ疑問に答えてやったのにさ」
みゆきが、ふくれっ面をした。
「で、何か用があったんでしょ?」
「うん。その通り」
圭子のとりなしで、機嫌を直してみゆきは言った。「ところでさあ。あんた達二人、一昨日は何してたの?」
「え?」
綾音と圭子は、顔を見合わせた。
一昨日――それは、この学校秘伝の七不思議の一つ、時計の中の少女を見極めようとしたあの日のことである。
「綾音、言ったの?」
圭子が訊いた。
「私? 何も言わないよ」
「じゃあ、誰が……」
「知らないってば!」
綾音もムキになってくる。
「誰も、そんなこと言わないわよ」
二人がやり合っているのに呆れて、みゆきがそれを制した。「たまたま、それを見てた人がいるの」
「誰?」
二人が同時に声を発した。
みゆきが、妙にニヤニヤしている。
「まさか――」
「その、まさかよ」
「嘘でしょ?」
と、綾音。
「残念ながら、本当なのよね。――私、ちゃんと見たんだからね。二人で美術準備室に入るの。最後まで確かめてみたかったけど、そんなのにつき合ってて、帰れなくなるの嫌だったから」
みゆきの家は郊外の新興住宅地にある。そこを通るJR線は町中でもないのに全線高架を走っていて、風が吹く度に徐行だの運休だのしているのだった。
「あそこの廊下は人が歩くと絶対にばれるしね。でも、遠くから見てるだけじゃつまんないから、一度は前まで行ったのよ。ねえ、何してたの?」
みゆきは、圭子の脇腹を突ついた。
綾音と圭子は、思わずお互いの顔を見つめ合った。そして、次の瞬間には狂ったように笑い出していた。
みゆきは二人が大笑いする理由が解らず、唖然としてそれを見つめていた。
「なあんだ、そんなことだったの」
さもがっかりしたと言わんばかりに、みゆきはおおげさに肩を竦めた。
「みゆきとしては、何を期待してたわけ?」
綾音が、怪しげな目つきでみゆきを睨む。圭子もそれに追従した。