時計
綾音は、幽霊であるはずの歌苗に、もはや一寸の恐れも感じていなかった。それは、この世ならぬものと友達になるなどという大それたことを言ってしまったことにより、それまでのわだかまりを捨て去ってしまったかのようだった。
「ねえ。私にこの学校を案内させてくれる?」
「う、うん。いいけど……」
綾音もここの生徒である以上、今さら校内を案内してもらう必要などなかった。
歌苗はいつしか時計の文字盤から抜け出して、綾音のすぐ前に立っていた。かつての制服であろう、今よりはかなり重そうなセーラー服に身を包んで。
「じゃあ、行きましょう」
妙にはしゃいだ調子の歌苗に促されて、割り切れない思いのまま綾音は後について歩き出した。
時計から抜け出した少女は、やわらかな光の粉をふりまきながら綾音の前を歩いてゆく。その姿は、幽霊とはとても思えないほどの輝きに充ちていた。綾音はその姿を、まるで妖精のようだと思った。
そう、歌苗は妖精なのだ。旧校舎の古時計に棲む、時の妖精なのだ、と。
「どうしたの? 早く、早く!」
歓びを声で、またその全身で表現しているかのように、歌苗は振り返って言った。
「え……?」
綾音は不意に立ち停まって、長く続く廊下を見た。
「ちょ…、ちょっと、歌苗さん」
「何?」
「何って……」
綾音が驚いたのも無理はなかった。本来なら、この辺りで旧校舎から中央棟へと入るはずなのだ。しかし目の前に続く光景は、どこまでも旧校舎のものだった。そればかりでなく、台風の接近で夜のように暗かったはずの廊下は、今は眩しい光が窓から射し込んで、さながら春を想起させる明るさだった。この窓は方角的に一日のうちわずかな時間しか陽が射すなどということはないはずなのに。
「ここは、私の記憶の中にある学校よ」
暖かな光に包まれて、歌苗が言った。そして綾音の方歩み寄り、その手を取った。
歌苗の手は温かだった。それは、菜の花の咲き乱れる麗らかな春の陽光を思わせる、人の心に安らぎをもたらすような温もりだった。
「歌苗さんの記憶の中にあるって?」
綾音は、手を引かれて歩きながら訊いた。
「そうよ」
「私が、歌苗さんの記憶に入り込んでるってこと?」
「違うわ」
歌苗は綾音の方を向いて、ほんの少し微笑んだ。「あなたは生きているんだもの。そんなことは出来っこないもの」
「じゃあ――」
そこまで言いかけて、綾音は言葉を呑んでしまった。
「大階段室よ」
歌苗が言った。
「ここが……」
そこには、黄ばんだ写真でしか見たことのない光景が広がっていた。綾音から言葉を奪ったのは、このまさに壮麗の一言に尽きる眺めだった。
吹き抜けの広大な空間。二手に分かれ、緩やかな弧を描きつつ二階へと続く階段。ホールを見下ろす形で一周している回廊……。それらのものを、大きな明かり採りの窓からの光が、穏やかに照らしている。
まるで宮殿のようなその空間は、綾音の心を捉えてやまなかった。彼女はその場に立ちつくし、文字通り言葉を失ってしまったのである。
歌苗が、綾音の手を引いて階段を昇り始める。綾音は放心状態で、導かれるままについて行った。
「ここは、私の記憶の中の世界。そして、記憶の中の時間よ」
二階の手すりに手をつくと、歌苗は言った。
綾音は黙っていた。たとえ言葉にしたとしても、ここではその意味は虚しく溶けて消え去ってしまうように思えた。
「ねえ、小宇宙って言葉、知ってる?」
先刻から黙ったままの綾音に、歌苗が問いかける。
「知らないわ。――小さな宇宙ってこと?」
「ええ……。そうなんだけどね……」
「違うの?」
「間違ってるわけじゃないわ。でも、小宇宙って人間のことを言う場合もあるのよ」
「人間?」
綾音は、歌苗の顔を見つめて訊いた。
「そう、人間よ」
「どうして?」
「私達が、普通〈宇宙〉と呼んでいるものは〈大宇宙〉って言うの。そして、それに照応する形で人間のことを〈小宇宙〉って呼ぶのよ。もっと広い使われ方もあるけれどね」
「それが、ここと何か関係があるの?」
綾音はわけが分からなくなって、重ねて訊いた。
「あるわ。〈大宇宙の縮尺としての、小宇宙である人間の存在〉は、占星学的な考え方よ。だとしたら、必然的にその逆のことも言えるんじゃないかしら。――私達は自らの意識を拡大することによって、各々の宇宙を創り出すことが出来ると」
「宇宙を……?」
それはあまりに途方もない話だったため、綾音は危うく卒倒してしまうところだった。
歌苗は慌てて、綾音の体を支えた。
「綾音さん、大丈夫? ごめんなさい。こんな話、するつもりじゃなかったのに……」
「うん……、大丈夫よ。いいから続けて」
歌苗の腕に支えられて、綾音は言った。
「え、ええ。でも……」
「いいのよ。私って馬鹿だからさ、難しいことが多くなると勝手に倒れるように出来てるのよ」
綾音が冗談めかして言ったため、沈鬱な空気はすっかり失せてしまって、歌苗は先刻の続きを話す機会を逸してしまった。べつに重苦しい雰囲気の中でなければ話せないわけではなかったが、あまり楽しく話せる内容でもなかった。
再び一階へと降りたふたりを窓からの白い光が照らし出し、まるで観客の誰もいない大掛かりな舞台の上の小さな演者のように浮かび上がらせていた。
ふたりはその後、歌苗の思い出の中の学校を見て回り、よく整備された中庭やかつての校舎の異国情緒あふれる外観を堪能した。
「今日は本当にありがとう。とっても楽しかった……」
「うん。私も」
ふたりは中庭の噴水の脇に置かれたベンチに腰を下ろしていた。
「また、私と会ってくれる?」
歌苗が訊いた。
「いつも会ってるじゃない」
「それもそうね」
そこでちょっと微笑んで、歌苗は続けた。「でも、こうやってまたお話ししてほしいの」
綾音は静かに、しかしはっきりと頷いた。
「ありがとう……。あなたに出逢えて、本当によかった」
噴水の水が穏やかな音をたてていた。庭にはあらゆる季節の花が咲き乱れ、陽光は麗らかにふたりを包んでいた。
歌苗はそっと立ち上がって、花壇の方へ歩いてゆく。そして、咲いていた花の一つを手折るとそれを綾音の前に差し出した。
それは、小さな紫の花だった。
「何? これ」
綾音は、それを受け取って訊いた。
「忘れな草よ。私の好きな花。あなたが、ここであったことを夢だと思わないように……」
「忘れな草……」
綾音は、その花の名を繰り返した。
歌苗はそれを見て微笑むと、くるりと綾音に背を向けた。スカートの裾が、ふわりと広がる。
「じゃあね、さよなら。――今日は、本当にありがとう」
少し離れた所で振り返り、歌苗ははにかみながら言った。
小走りに駆けてゆくその後ろ姿を見送りながら、綾音は再び呟いた。
「忘れな草、か……」