時計
4. 少女
「私の名前は、吉堀…歌苗……」
文字盤の少女は、はっきりとそう言った。
それを聞いても、綾音はさほど驚かなかった。ただ、あの話が正しかったことを確認したに過ぎなかった。
「私は――」
「綾音さん……、でしょ?」
綾音が自分も名乗らなければという衝動に駆られて口を開きかけたとき、歌苗と言った少女がそれを遮った。
すっかり度肝を抜かれてしまって言葉を失くした綾音を見て、歌苗は少し微笑んだように見えた。
「びっくりすることはないわ。いつもそう呼ばれてたでしょ。あなたがここにいる時……」
そうだった。綾音がこの時計の前でぼんやりしていて、圭子に名前を呼ばれて初めてそれに気づくということが度々あったのだった。「古いものにばっかり気を取られてたら、しまいには綾音がアンティークになってしまうかもよ」などと冷やかされたことさえあった。 歌苗が、他の者より飛び抜けて呼ばれる頻度の高い綾音の名を憶えていたとしても何ら不思議はなかった。
「綾音さん。あなただけだったのよ。私のことに気づいてくれたのは」
歌苗が言った。
「私は、べつに……」
「いいえ、気づいてたわ。あなた自身も知らないうちに」
「私自身も、知らないうち……?」
「そうよ」
「じゃあ、圭子は? 私と一緒にいた子」
「ああ、あの人ね……」
歌苗は、綾音の後ろに視線を投げた。
その目線を追って綾音が振り返ると、廊下の真ん中に立ち停まって、こちらを凝視している圭子の姿が目に入った。
「大丈夫よ」
その声で、綾音は再び時計に視線を戻す。
「何が?」
「何も、心配しないで……」
「いいけど……。でも、どうして私なの?」
その問いに対して、歌苗はしばし黙り込んだ。
「ねえ綾音さん。あなた、私が怖くない?」
「怖い……と、思う……。でも……」
綾音は、そのあやふやな恐怖をまた別のところで冷静に捉えている極めて第三者的な自分の存在を感じていた。「でも……、そんなに、怖がることもない……と思う」
それは、確かに怖いことには違いなかった。古い時計に棲む幽霊と話しているという非現実感が、辛うじて彼女の理性を支えているだけなのかも知れなかった。
「私もね、こんなになっても、怖いのよ」
寂しげに歌苗は言った。「だから、綾音さんが怖がるのも、私にはよく解るわ」
「私は……」
「いいのよ、無理しなくて。あなたは嘘をつけない人よ」
「……」
綾音は下を向いた。
「でも……、私、どうして歌苗さんを怖がらなきゃいけないのか、分からない……」
うつむいたまま綾音は言った。
「……それが、あなたを選んだ理由かも知れないわね……」
「私を? 選んだ?」
思わず大きな声を出してしまって、綾音は慌てて口を押さえた。
「誰も聞いてないわよ」
歌苗が落ち着き払って言った。
「でも、誰か来たら……」
「ここには、私と綾音さんだけしかいないのよ」
「だって、圭子が……」
綾音は振り返って、そこに立ちつくしたままの圭子を見た。
「……!」
その時、綾音は初めてある異変に気づいた。「雨、止んでるの?」
静かに視線を戻しながら、それでも戸惑いを隠せない表情で綾音は訊いた。
総ての音が失われていた。ずっと聞こえていたはずの雨音さえなく、廊下にはふたりの息遣いまでもが聞こえるほどの静寂がたゆたっていた。
「心配しなくてもいいわ。ここは、時間のポケットみたいな所だから」
どうしようもなく途方に暮れた顔をしている綾音を諭すように、歌苗は言った。
「時間の、ポケット?」
「そうよ。時間は一定じゃないわ。人間が確かだと思っているものの中で、時間ほど曖昧なものはないのよ」
時間が確かな尺度だと信じられていたのは、ほんの半世紀前までのことだった。時間は一定ではない。そしてまた、空間も一定ではないのだ。空間というものが時間に縛られているものである以上、それは至極当然のことである。
時空――それは、そこに存在するあまりにも小さ過ぎるもの達にとって、遠く想像の及ばないことだった。
「時間は、いつもひとつの方向に向かって流れているとは限らないわ。でも、時間を測る方法は一つしかないから、寄り道したりすると同じ時間でも長く感じられるの。――それに、時間をとてつもなく長い廊下に見立てるなら、そこには小部屋や別の時間軸へ通じる扉なんかが幾つもあるわ」
綾音は気が遠くなりそうだった。
「大丈夫よ。ここは、その小部屋の一つなの。ここを出ると、もう二度とこの部屋は使えないけれど、元いた時間に戻ることは出来るわ」
「ここを使えないって? それは……、ここがなくなってしまうっていうこと?」
熱にうかされたような口調で綾音が訊く。
「時間的にはね。でも、空間的には、ここは変わらないわ」
「……」
「解ってほしいというのは、所詮無理なことよ。生きているうちは、考えなきゃならないことが他に山ほどあるのだから」
綾音は、何も言うことが出来なかった。
永い沈黙が訪れた。しかしそれは、時間の澱みの中の、あくまでふたりだけが感じている主観としての時の流れの中でのことだった。
「寂しかったのね……」
綾音が、呟くように言った。
それは、人は真の孤独に身を置いてしか、時とそれに相応する空間の概念を本当に見極めることが出来ないのではないかと感じたからであった。
歌苗は何も言わなかった。
「私でよかったら――」
そこまで言って、綾音は自分の心の動きに驚いて口をつぐんだ。
「え?」
「うん……」
綾音は口から出かかった言葉を今さら引っ込めるわけにもいかず、言い澱んでしまった。「あのね……。私でよかったら、――そう、何て言えばいいのかなあ……。えーと――」
こういう場合、どのように言えばいいのだろう。綾音は頭の中で、様々な言葉を思い浮かべては消すということを繰り返した。
歌苗は黙したまま、次の言葉を待っている。
「私でよかったら……ね、お友達に……なってあげても、いいかな…って……」
途切れ途切れではあったが、綾音はなんとか言ってのけた。
長い間ひとりぼっちで、恐れられることはあっても決して理解してもらえなかった歌苗の気持ちは、綾音にも痛いほどよく解るような気がした。それは憐れみなどという浅薄なものではなく、心のもっと奥深いところで共感とでもいうべき感情を伴って、彼女の意識の表層に浮かび上がってきたのだった。
「本当に……? 本当に、いいの?」
それまで暗い物憂げな色をたたえていた歌苗の瞳が、まるで一条の光を捉えたように輝きを帯びた。
綾音はその言葉に深く頷いて応えた。
「こんな私でも……?」
歌苗の声は潤んでいた。
「それは、私の台詞よ」
綾音は言った。幽霊と友達になるなどということが、果たして本当に出来るのだろうか。彼女はそんなことを考え、また本気で心配している自分を滑稽に思った。
「よかった……。私、あなたを待ってた甲斐があったわ」
「ずっと、私を待ってたの?」
「そうよ。いつかあなたは、それがたとえどんな形であれ、私に気づいてくれると信じてたわ」
「それって、直感みたいなもの?」
「まあ…ね……」
歌苗は曖昧に笑った。