Riptide
呟くと、酒井はエンジンを停めて、運転席から降りた。三咲は助手席から降りると、腕の傷を隠すように長袖のジャケットを羽織った。リュックサックの紐を片方だけ肩に通し、酒井の後ろをついて歩いた。前に回って顔を覗き込むと、言った。
「教えてくれないんだ?」
「道路の端っこさ。光ってるの分かる?」
「うん」
港に下りるわき道の前まで来たとき、割れていびつな形になったオレンジ色の塊を見た三咲は、口元を両手で覆って、酒井の横顔を見上げた。
「すごい、これって」
「あいつらの車のミラーだろ。これは右だ。ってことは、ここを下りてったんじゃないか」
酒井は、坂道を指差した。三咲は、道路の真ん中に、擦り傷のような白い痕があることに気づいた。
「バンパーかな。擦った痕があるよ」
「目がいいな」
酒井が言うと、三咲は小さく舌を出した。二人で坂道を下りて、港の方を見たとき、すでに答えが分かっている問題の解説を読むように、三咲は退屈そうに目を細めた。
「簡単すぎ」
オレンジ色のワゴンRが海を向いて停まっていて、そのリアハッチには、ハイラックスの巨大なバンパーが接触した痕が残っていた。三咲は慌てて酒井の体を掴み、電柱の後ろに隠した。
「なんだよ」
三咲は、子供がかくれんぼをするように頭を低く下げると、言った。
「殺そう。今」
酒井は呆れたように笑った。ここまで人目につかないように、ずっと後を追ってきたのに、今さら海辺の町で、しかもこれだけ開けた場所で、人を二人バラバラに刻むのは自殺行為だ。
「人目につくよ」
「じゃあ、どうするの?」
「そもそも、いないんじゃないか。ご飯でも食べてるんだろ」
「そっか」
三咲はあっさり諦めると、さっきまで隠れようとしていたことなど忘れたように、ワゴンRにつかつかと近づいて、ぐるりと一周するとうなずいた。
「うん、読み通りいませんね」
酒井は、ドアがロックされていないことに気づいて、ドアノブを捻った。
「鍵が開いてる。相当焦ってたか、この車は用済みなのか、どっちかだな」
「ねえ、あの子らはご飯食べてんだよね?」
「おれの勝手な想像だけど」
酒井の言葉に、三咲は口角を上げて笑った。そのまま口を開ければ、猫があくびをしたように見えるだろう。好奇心でぎらついた目が車内に向き、三咲は助手席のドアを開けた。高石の私物であるリュックサックをシートの上に置いて、ファスナーを開けた。
「おいおい、待て」
酒井が止めようとすると、三咲は無事な方の手を中に突っ込んだ。ビニール袋の端を掴み、リュックサックの中で中身をひっくり返すと、再びファスナーを閉めた。
「人の物だしね。返しとく」
三咲は助手席のドアを閉めると、満足げにうなずいた。しばらくの間、スマートフォンのストップウォッチに表示されている数字を見つめていたが、スクリーンショットを撮って待受画面に設定すると、酒井の同意を求めるように、呟いた。
「世界記録だよ、多分」
酒井は雑木林をじっと見つめていて、三咲の言葉は耳に届いていなかった。振り返ると、言った。
「おれなら、林に逃げる」
「わたしもそう思う。でもさ、あの子ら薄いスニーカー履いてたよね。歩こうと思うかな?」
三咲が言うと、酒井は首を傾げながら、引き返し始めた。三咲は慌てて後ろをついて歩きながら、林に通じるトンネルを振り返った。
「戻るの?」
三咲が言うと、酒井は拳を固めて、ナイフを素振りするように手を動かした。
「道具が要るだろ」
「そっか」
三咲は坂道を先に駆け上がると、ハイラックスの助手席に乗り込んだ。ダッシュボードの中に、ガーバー製の小型ナイフが入っている。酒井はリアハッチを開くと、二人分の登山用カバンを見つめた。全部を持っていくわけにはいかない。
酒井は三十六歳で、サラリーマンだったころは、コピー機のセールスをやっていた。本業と両立しながら余暇を利用して、三咲と一緒に人を殺していた。はっきりとした自覚はなかったが、テレビで『連続殺人鬼』という表現を目にしたとき、それが自分たちに一番当てはまる言葉だということを知った。そして、そういった『趣味』には金がかかるし、当たり前だと思っていた。しかし四年前、そんな二人の前に、自分の金を使わないで済むどころか、その仕事ぶりに報酬を払ってくれる人間が現れた。ひとくくりに『始末屋』と呼ばれる世界だが、酒井と三咲には長年やってきた『自腹の殺し』で得た経験があった。それに、あうんの呼吸で殺しを実行できる二人というのは珍しく、重宝された。酒井は、フラットにした荷室に三脚ケースとブーツを並べると、カバンから必要な道具を厳選した。酒井は、昔からほとんど病的と言えるほどに、準備が好きだった。対照的に、三咲は直感に従うタイプで、今もジャケットのポケットに入れたナイフの刃で、酒井を軽くつついていた。三十二歳になっても、その仕草にはどこか子供っぽさが残っている。
「はーやーくー」
「待てって。こういうのは、段取りが大事なんだ」
「三脚だけでいいじゃん」
三咲がそう言ったとき、原付のエンジン音が坂道を上がってきて、その姿が現れるよりも前に、三咲はナイフをジーンズの尻ポケットに収めた。
白戸巡査は、県道に出るために一時停止したとき、待避所にハイラックスが停まっていることに気づいた。男女が開いたリアハッチの前で話している。朝のパトロールは、これから田井家の見回りをして挨拶した後、先月不審者の出た山道の方に向かってぐるりと一周すれば、昼前には終わりだった。ハイラックスの男女がどうしても気にかかり、白戸は待避所に原付を寄せると、男に声をかけた。
「おはようございます。撮影ですか?」
男は三脚ケースを点検しているようで、女の方が愛想のいい笑顔を向けた。二人とも都会の出身のようで、ナンバープレートも県外のものだった。
酒井は三脚ケースをカバンの隣に置くと、質問に対する答えをようやく思いついたように、小さくうなずいた。
「はい」
三咲は、今日が七月六日だということを思い出して、スマートフォンを取り出した。現在地を表示しようとしたが、電波が悪く、画面は中々表示されなかった。白戸は、二十六歳の自身よりは、確実に年上に見える酒井に、できるだけ丁寧な口調を心掛けて、言った。
「ここね、待避所なんですよ。あまり長い時間は……」
「ですよね、すぐ移動します」
酒井が言ったとき、三咲がスマートフォンをポケットにしまいこんだ。
「しっかし、夜までヒマだなあ」
「ああ、お二人もあれですか? 雲、多いですよ今日」
白戸が少し呆れたように笑った。現在地が、天の川の撮影スポットに近いということを調べていた三咲は、言った。
「夜は晴れるみたいなんです。気合入っちゃってんですよ、もう。場所だけ当たりつけたら、移動します」
三咲がいたずらっぽく笑い、酒井をつついた。白戸は目だけで会釈すると、原付のシートに腰を下ろして、走り去った。準備に戻った酒井は、言った。
「盛り上がってたな。なんの話してたんだ?」
三咲は笑った。
「七夕だよ。あの林の裏側が、棚田になってるみたい。今日、撮影で人集まるんじゃないかなあ」