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オオサカタロウ
オオサカタロウ
novelistID. 20912
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Riptide

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 正人はそれでも、その場を離れる気にはならなかった。一度足を止めて、どことなく安心できる環境を見つけてしまった以上、緊張の糸が切れて、動く力が体から抜け落ちたようになっていた。
「あの、すみません。誰かといると、ほんとに来ないんです」
「そーなんだ」
 女の人は特に関心がない様子で、宙に向かって言った。小石を器用に足で引き寄せると、また蹴った。
「ほんとに来ますよ」
「タイキックさん? だって退屈じゃん。いーよ、怒られたらわたしが謝るから」
「怒られてるところも、見たくないです。あっ……」
 正人はそこまで言ったとき、女の人が腕を怪我していることに気づいた。女の人は自分の左腕を見て、大げさに泣くふりをした。
「痛いけど、もう血は止まったし、平気だよ」
 正人はランドセルから消毒液を取り出した。それをじっと見つめる女の人に言った。
「上からでも、消毒になると思います」
「お願いしていい?」
 正人は、止血に使われている布の上から、消毒液を振りかけた。女の人は少しだけ痛そうに顔をしかめたが、漫画の登場人物のように派手な笑顔を作って、言った。
「ありがと」
「水もありますよ。あっ、お茶ですけど」
「もらってもいいの? 全然なくってさ」
 水筒を手渡した正人は、女の人が一口を丁寧にコップに分けて飲む様子を見ながら、思った。どう見ても、ハイキングをする格好じゃない。準備を途中でやめて、慌てて家から出てきたみたいだ。でもその仕草は、一つ一つ大人びていた。女の人はすべての悩みから解放されたように、一度目を閉じた。
「あー、ほんとありがと」
「ほんとに、あっち側に抜けますか?」
 正人が言うと、女の人は小さくうなずいた。
「そうだなあ。抜けてみたいね。見渡せる場所とかないかな?」
 女の人の言葉に、正人は立ち上がった。今日は夜になるまで、家も無人だ。明弘は海で遊んでいるはずだし、何よりこの女の人といれば、翔平は近寄ってこない。
「あります。近道ってないんですけど。坂が一番楽な道なら、分かります」
「ちょっと、付き合ってくれる? でも、あの友達じゃない子は、ほんとに引き返してったよ」
「隠れて、待ってると思います」
 正人が当たり前のことのように言うと、女の人は呆れた様子で短く笑った。
「子供って、よく分かんないな」
 正人がその言葉の真意を計りかねていると、女の人は立ち上がって、お尻の下に敷いていた小石を、記念品のようにうやうやしく地面に置いた。正人は、次に女の人がやることを予測していたが、怖いもの知らずな気がしたから、何も言わなかった。女の人は、ひときわ丸くて綺麗なその小石を、他の石と同じように蹴飛ばした。
     
 自分の声の勢いでコップがひっくり返ったのは、七十四年の人生で、初めてだった。実際にはちゃぶ台の脚に体がひっかかったのだが、今の田井に、そんなことを認識する余裕は全くなかった。扇風機を止めると、呟いた。
「またか……、負けてられんぞ」
 蔦が絡みついた一軒家。裏に広がる山林の内、尾根に至るまでの死んだ土地。そこを越えれば棚田になっているが、それは田井の持ち物ではなく、尾根が境界線になっていた。田井の兄で、十五年前に六十三歳で死んだ靖之は、そもそも、何も育てる気がなかった。八十年代半ばに、棚田がイノシシに食い荒らされる事件があり、田井はその頃、遠く離れた都会で一人暮らしをしながら、電気工事技師の仕事で生計を立てていた。基盤とハンダの匂いは、今でも記憶を呼び戻すだけで、目の前に感じることができる。四十代で、職場以外の人付き合いは、ないに等しかった。靖之から連絡が入ったのは、橋の架線工事を終えて長めの休暇に入ったときだった。イノシシの巣が靖之の所有する林に作られていたことから、電気柵を設置することになり、久雄にも声がかかった。地元を離れて数十年が経っていて土地勘もない上に、業者の人間と一緒に打ち合わせをする羽目になったのは癪に障ったが、結果的には、良い仕上がりになった。柵の高さや、通電する電気の容量。当時にしては高級品だった電源ボックスまで、かなりのこだわりが形になっていた。
 問題は、電気柵の設置以来、イノシシがぱったりと出なくなったということ。それどころか、数年も経たない内に、近所の主婦が散歩させていた小型犬がひっかかって感電死し、警察からの指導でよほどのことがない限り、通電しないようにというお達しが出た。そうやってすぐにお蔵入りとなった電気柵だったが、靖之が亡くなり、他の誰もが遠くに家族を持っていて身動きが取れなくなっていたとき、住人を失った家の管理人として、再び、定年退職を控えて身寄りのない久雄に、白羽の矢が立った。家に戻ってきた久雄はまず、電気柵が通電可能であることを確認した。そして十年が過ぎたときに、事件が起きた。健康維持のために山を歩いていた久雄の前に大きなイノシシが現れ、咄嗟に上手に立った久雄は、無我夢中でその体躯に蹴りを入れた。急所を殴りつけ、目を突き、考え付くことを全てやってのけた結果、イノシシは戦意を喪失したように身を沈め、逃げ出した。空手をずっと続けてきたことが、こんな瞬間に役立つとは思っていなかった久雄は、その日からイノシシとの闘いを決意した。
 あの日は朝から、様子がおかしかった。妙に林の中が騒がしく、昼前に、砂交じりの石の塊が屋根に落ちてきた。
「あのときと一緒じゃ……」
 田井は呟きながら、部屋の真ん中に場違いに吊るされたサンドバッグに、蹴りを入れた。中段、下段と続け、上段は自身の腱が切れる心配もあり、諦めた。体はまだまだ動く。しかし、五年前から比べると、反応速度は鈍っていた。いつも白戸巡査が訪れるのを原付のエンジン音で聞き分け、先に玄関に出て敬礼することで、その反応速度を測っていたが、今日は歴代で最も遅れを取った。そうなることを予期していたわけではなかったが、空手ともう一つ、久雄が続けてきて、電気柵同様に温存してきたものがあった。
 田井は、ブラウニングの狩猟用ガンケースを押し入れから出してくると、正座して対面し、上下二連のミロクニ七〇〇D散弾銃を抜いた。口径は二十番で、スラッグ銃身が装備されている。数年前までは、害獣除去のボランティアとして、県外に出かけることもあった。
 田井は、フェデラル製のサボットスラグ弾を紙箱から掴み取ると、皮製のウエストポーチに六発を入れて、散弾銃本体はハンティングバッグへと収めた。タオルや水をリュックサックに詰め込み、白の作業服に着替えると、胸ポケットに塩飴を入れた。スポーツドリンクが嫌いな田井は、いつも水と塩飴の組み合わせを重用していた。手を水にさらし、床に倒す勢いで炊飯器を開けると、ソフトボール大のおにぎりを二個握った。ラップで捲いて、リュックサックのサイドポケットへ手榴弾のように放り込んだ。
作品名:Riptide 作家名:オオサカタロウ