天空の庭はいつも晴れている 第11章 慈愛と呪縛
(本当は生きたかったんだ、きっと。幸せに生きたかったんだ。僕の家族がそうだったように、三人で幸せに暮らしたかったんだ)
アニスにはそう思えた。目の前に両足がぶら下がっている。
「せめて降ろしてあげられないかな?」アニスは聞くともなしに、言った。「あのロープを切らなきゃ。ナイフ……」
「これ……」
ルシャデールが小さな銀のナイフを差し出していた。
それを受け取ると、アニスはひょいっと飛び上がり、セレダの頭より少し高いところに留まる。浮揚するのも少し慣れた。
左手で縄を抑え、その上をすぱっと断つ。セレダを乱暴に落とさないように、アニスは少しずつ降ろしていった。
床に座り込んだルシャデールの母は、相変わらず虚ろな表情だったが、陰鬱な影は少し消えていた。アニスは首から縄をはずしてやった。ルシャデールは呆然と母を見ている。
「抱きしめてあげなよ。やったことないかもしれないけど。ほら、こんなふうに」アニスはそう言って、セレダの首を抱きしめる。
しかし、ルシャデールは動けなかった。甘えようとしても「うるさい子だね! あっちへお行き」と拒絶された。愛される値打ちのない子、生まれてはいけなかった子。その思いは強く彼女の中に根を張っている。
カタ、と部屋の隅で音がした。そこには大きな衣装箱があった。
蓋を押し上げて、覗いている二つの目がある。アニスは近づくと、そーっと蓋をあけた。中で縮こまっていたのは小さな女の子。枯草色の髪に、灰色の瞳。妹と同じ三歳くらいだろうか。ルシャデールをそのまま小さくしたような姿。
「君は……ルシャデール?」
衣装箱の中の女の子にアニスはたずねた。彼女は小さく首を振る。
「ターシャ。……でも、母さんはしょっちゅうルシャデールって呼んでる」
うつむきがちにアニスを見る顔はあどけなく可愛い。思わず微笑むアニスに、ターシャもためらいがちに笑みを返す。
「出ておいでよ」
「母さんは?」
聞かれてアニスは床に座り込むセレダを振り向く。ターシャの目に入らないはずはないのだが、彼女の目に映らないのかもしれない。ルシャデールは凍りついたように、アニスと幼い自分を凝視していた。
「お母さんは……用事でお出かけだよ」
「どこへ行ったの? もう帰ってこないの? いやだ、母さん!」
箱から出てどこかへ行こうとするターシャをアニスは抱きとめた。
「帰って来るよ。お母さんは、ターシャのことが大好きだから、ちゃんと帰って来る」
ターシャの目から涙があふれる。
「かあさんはターシャのことが嫌いなの。いつも、おまえなんかいなければいいのにって言うの。きっと、あたしが悪い子だから」
「ターシャは悪い子じゃないよ」アニスはターシャの背中をさする。「お母さんはターシャのことが大好きだよ。ただ、ちょっと……辛いことや悲しいことが多すぎて、うまく大好きって言えなくなったんだ」
「そうなの?」
「うん。だって僕はターシャのこと大好きだもの。お母さんがターシャのこと好きでないはずないよ」
「あなただあれ?」
「僕はアニス」
「幽霊には見えないけど、もしかして妖精さん? あたし妖精さんはよく見るの。怖いのとか、優しいのとか。」
「うーん……そんなようなもの、かな?……あ、そうだ、友達だよ」
「友達って?」
「家族じゃないけど、大好きって言ってくれる人のこと」
「ターシャのこと好き?」
「うん、大好き」
「本当? 世界中で一番?」
「うん。世界で一番」
「うれしい!」小さなターシャは飛び上がってアニスの首に抱きついた。「お礼に首飾りをあげる。」
彼女の手には、白つめ草を編んで作った首飾りがあった。それをアニスの首にかけた。
「ありがとう」にっこりと微笑むアニス。「もう一つあるかな、首飾り?」
「うん」ターシャの手にもう一つの首飾りが現れる。
「それをあっちのお姉ちゃんにかけてあげて」
ルシャデールは困ったようにアニスを見るが、ターシャは彼女の首に花輪をかけた。
「はい」
「……」
どうしていいかわからないルシャデールにアニスは、あ・り・が・と・う、と口の形を作って教える。
「あ……りがとう」
その瞬間、光がはじけた。白銀の輝く粒子がルシャデールとターシャを包む。一瞬のち、ターシャは消え、ルシャデールが残っていた。その胸にはシロツメクサの首飾りがかかっている。
彼女は首飾りをつまみ、それから上を向いて目をつぶる。涙が一筋頬を流れていく。
その様子に、アニスの胸が痛む。誰にもすがることができなかった今までの姿が見えるような気がして。
泣きたい時も、ああやって我慢してきたんだ。
ルシャデールは目をぎっちりつぶって涙を押し出してから手で拭い、アニスの方を向いた。
「一度だけ、母さんが近くの野原に連れて行ってくれたことがある。その時に、シロツメクサで首飾り編んでくれたんだ。そんなことは……あれきりだったけど」
彼女は座り込んだ母の前へ行って両膝をつくと、その首に抱きつく。
生きていた時にしたかったこと。でも、拒まれてばかりだった。その分を取り返すかのように、いつまでもルシャデールは母にしがみついていた。肩を震わし、嗚咽《おえつ》が低くもれる。
だが、虚空を見つめる母は腕をだらんと下げたまま、何の反応もない。
「帰らない……」母の胸から顔を上げ、彼女はつぶやいた。「ずっとここにいる」
「ルシャデール」アニスはそばにしゃがみこんだ。「僕たちは向こうの世界で生きていかなきゃいけない。ね?」
そして、少女の手を取り、ポンポンと両手ではさむ。
彼女は涙を手でぬぐい、のろのろと立ち上がると、母を名残惜しげに見る。
「戻らなきゃ」アニスが言った。「僕たちは先に進まなきゃならない」
アニスと手をつないで歩きながら、ふいにルシャデールは彼にたずねた。
「友達?あの子にそう言ってたね。」
「うん」アニスは答えてから言いづらそうにルシャデールの方を見た。「信じてくれないかもしれないけど、僕はあの子にあったことがあるように思う。」
思わずルシャデールは彼を見る。
「妹が生まれる少し前だからあのくらいの頃かな。裏山で薪にする木を拾っていたら、女の子が現れて。薪を一緒に拾ってくれて、一緒に運んでくれた。そして、家についたらいなくなったんだ。近所の子ではなかった。父さんは村人の誰かの知り合いじゃないかって言ったけど、あとで聞いたらそんな子はいなかった。」
「……それ、覚えているよ。」ルシャデールはぼそっと言った。
「え?」
「衣装箱の中で寝ていて、気がついたら森の中にいた。歩いていたら黒い髪の子がいて木を拾っていたから手伝った。どうやって帰ってきたかはわからないけど。だから最初に庭で会った時、なんとなくわかったよ。あのときの子だって。でも覚えているかどうかわからないし、頭がイカレてるとか思われそうだから言わなかった。」
「思わないよ」
「あの時、『友達になってよ』って言ったのは覚えてる?」
「どっちが?僕?」
「うん」
「ごめん、覚えてない。あっ、……その時に『友達って何?』って聞いたんじゃないかな?さっきみたいに」
作品名:天空の庭はいつも晴れている 第11章 慈愛と呪縛 作家名:十田純嘉