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天空の庭はいつも晴れている 第11章 慈愛と呪縛

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「気に入ってくれたかな? 私たちは降りていくこともできる。君がこちらへ昇ってくることができるように」
 それからアニスの母が、彼女を抱きしめようとしたが、ルシャデールはやんわりと拒んだ。
「慣れていないんだ、優しくされるのは」
 そう、と、アニスの母は寂しげにうなずいた。
「でも、忘れないで。『庭』はここだけにあるのではないことを。向こうにもちゃんと、あなたのための『庭』があるわ」
 ルシャデールは心もとない様子だったが、アニスの方を向いた時にはいつもの不機嫌な顔に戻っていた
「もういい?」
「うん」
 アニスは何度も振り返りながら歩きだす。父も母も妹も祖父も、いつまでも手を振りかえしてくれている。また会えるのかわからない。ひどく切ない。それでも、全く失くしたわけではないし、彼らが今でも大事に思ってくれていることは、アニスの中にしっかり浸透していった。
 彼らの姿が見えなくなってしばらくしてから、ルシャデールがたずねた。
「見る? 私のかあさん」
「え……?」
「おまえの母さんとは全然違うし、もしかしたら……気持ち悪いかもしれない。でも、おまえはたぶん軽蔑したりしないだろうから」
 アニスはうなずいた。

 『庭』から再び二人はあの道へ戻る。囚われの野を突っ切っている道へ。
 ルシャデールはむっつりと黙り込んでいる。アニスは家族との再会について思いをめぐらすよりも、彼女の様子の方が気になった。さっきは何も考えずに父母に甘えてしまったが、それを見ていた彼女がどう思ったか。親と死に別れたのは同じだが、どう考えてもルシャデールの方が辛そうだ。
 彼女は道を降りて、岩山の穴の一つへと入って行く。アニスがそれに続く。

 雑然とした部屋だった。カーテンのかからない窓。部屋の隅に転がる五、六個の酒瓶。脱ぎ散らしたままの服が、何枚かベッドのそばに落ちている。テーブルの上には汚れた食器。素焼きの小さな紅壺から、血のように紅が流れ出ていた。
 そして部屋の真ん中に、梁からかけた縄で女性が首を吊っていた。年は三十前だろうか。アニスの母より若いかもしれない。ルシャデールと同じ色の髪はくしゃくしゃに乱れている。虚《うつ》ろに見開かれた目は灰色だ。細い手首。
ルシャデールはそのさまを、ただじっと見つめている。
〈そいつの母親さ〉
 ふいにカズックの声がして、アニスは思わずきょろきょろ見回した。もちろん、カズックはアビュー屋敷のドルメンだ。
〈あのひとは死んでからずっと、あのままここにいるの?〉
〈ああ。自分から死ぬのは一番悪いことだからな。おまえさんの妹がさっき言っていたろ、また生まれ変わるための準備をしているって。次はどんな人生にするか、計画をたてているってな。自殺は自分で立てた計画を自分で否定し、逃げてしまうことなんだ〉
〈いつか出られるの? 出て『庭』へ行ける?〉
〈いつか、な。しかし、長い時間がかかる。もっとも、そこでは時間の流れがないから、一瞬のようでもあり、永遠のようでもあり、ってところか……〉
〈なんとかできないの?〉
〈神でも従うべき掟があるのさ〉
 母親の半ば開いた口から、
「ルシャ……デール……ど……こに……」切れ切れの言葉がもれる。
〈ルシャデールっていうのは親父さんの名前さ。女の子は父親に似るっていうが、そうなんだろうな。おっかさんは娘を親父さんの名前で呼んでいたらしい〉
アニスには想像もできなかった。父親が母を置いて失踪し、母が首を括《くく》って死ぬ。
〈母一人、子一人の家ってのは、たまにあるさ。しかし、一緒に住んでいながら、これほど見捨てられたヤツもそういないだろうな〉
 服は一度着せたら、小さくなって着られなくなってもそのまま。ろくに拭いたこともない体は垢で真っ黒、髪は一度もとかしたことがないのか、もつれて鳥の巣よりもひどい。食事も一日に一回もらえればいい方。母親は酒場の仕事に出たまま、帰ってこないこともあったから、その間は水を飲んでしのいでいた。酒場で知り合った男を連れて帰ることもあった。
〈なぜ、このひとは自殺なんかしたの?〉
 しばしの沈黙があり、それからカズックは話してくれた。
〈その女は娘の力を、特に予見の力を嫌っていた。怖れていたのさ。そいつの父親がもう戻ってこないと、宣告されるのではないかとな。だけど、酒場の男に捨てられて、ついに聞かずにはいれなくなったんだ。おまえの父さんはまたここへ戻って来るか、と。そいつは母親に正直に答えたさ。もう二度と来ない、とな〉
〈ルシャデールは……知ってるの?自分の言ったことがきっかけで、お母さんが自殺したって〉
〈ああ、あいつはわかっている〉
 その予見がなくても、長生きはできなかったかもしれない。しかし、そうであっても、自分の言葉が最後の一押しになってしまったことを、どう考えればいいのか。
〈おれのところに来た時は、汚い身なりの中に目だけがぎらついて、ちょっとした魔物じみてたな。まったく口をきかず、敵意に満ちた目をして、周りの人間をいつも睨みつけていたな。それでもかなりマシになったんだ〉
 ルシャデールは何度もここへ来たのだろう。アニスは彼女を見た。固い表情で母を見上げる姿は、どこかあきらめが漂う。本当は、こんな姿の母を人に見せたくはなかったかもしれない。それでもアニスを連れて来たのは、彼の家族を見て、根拠のない奇跡を望んだからのように思えた。
「かあさん……」
 かぼそい声でルシャデールが呼びかける。彼女の口から出た言葉は血のように紅い花びらに変わり、どこからか流れてくる柔らかな気流に乗って吹き上がると母の上に降りかかった。それ以上言葉もなく、彼女はたたずむ。取り乱すこともなく、淡々と首を括ったままの母を見つめている。
 どうするという考えもなしに、少年はルシャデールの横に立つ。どうしたものか戸惑いつつ、少女と母親を見やる。
「お母さんの名前、何ていうの?」
「セレダ」
 ルシャデールはそれがどうしたというように、視線を彼に投げかける。
「セレダさん」アニスは語りかける。「ルシャデールはあなたのことが大好きだって」
 言葉は薄桃色の花びらに変わりセレダの上に降り落ちる。
「あなたがこうして囚われてしまっているのが、それに、そこから出してあげられないのがとても悲しいって。小さかった頃、もっとあなたに抱きしめてほしかったって」
 花びらははらはらと、首をくくったままの彼女の足下に降っては消えていく。春の雪のように。
「もっと、愛してほしかったって。だけど、今はそんなことより、あなたが早くそこから出て、幸せになれることを祈っているって」
 アニスはそこまで言うと、ルシャデールの方を振り向き          
「そういうことを言いたいんだよね?」と聞いた。
 ルシャデールは泣きそうに顔をゆがめ、唇をかんでいた。泣いていたのはアニスの方だった。彼はセレダに近づいた。怖いとは思わなかった。黒々とした絶望と悲しみ、混乱した感情が流れてくる。それは波打ち呑み込もうとアニスを襲うが、彼の中からあふれてくる輝きとぶつかり合って、昇華されていく。