天空の庭はいつも晴れている 第9章 海
彼の前には、魂に置いていかれた二人の体が眠っているように、横たわっていた。カズックはそれをを穏やかな目で見守る。
石段を上りきると、また違う景色が広がっていた。
海の色はもっと暗さを帯び、冷たそうだ。波も少し荒い。空の色も白っぽい水色だ。
海岸沿いの段丘には、ハマナスの木の群落が広がっている。花の濃いピンク色が空と海の青によく映えていた。奥の草原には黄色のキスゲやクロユリが花を開く。
その草原の真ん中に竜がいた。
銀色がかった水浅黄色の長い体はとぐろを巻いて、一番上に頭を乗せている。ごつごつとした顔に長いひげは風に揺らめく。雨竜は気持ちよさそうに目をつぶって鼻歌を歌っていた。
その体に寄り掛かって笛を吹く者がいた。ルシャデールやアニスよりは五つ、六つ年長に見える。緑の羽がついたつばなしの帽子をかぶり、苔色のチュニックとズボンを身につけているが、少女とも少年ともつかない。
笛の高い音色は樹のように暖かみがあり、よく澄んで、あたりに響き渡る。二人は立ったままその調べに聞き入っていたが、ふいに笛の音が止んだ。
「やっぱりこの音じゃ高すぎる。あの場所にはそぐわない」
そうかな? と、竜はちょっと首をかしげた。そして笛吹きが再び笛にくちびるをあてた時、二人に気がついて立ち上がった。
「おお、お客人じゃな」
竜は低く太い声で言った。
「やあ」
にこりともせず、ルシャデールは挨拶を交わす。雨竜クホーンと楽師のラフィアムだと彼女は教えてくれた。
「何をしているんですか?」
「歌を作っていた。時々はクホーンにもらうこともあるんだけど」
楽師のラフィアムは答えた。
「歌をもらう……?」
「僕は『囚われの野』にいる人たちが自らを解放できるよう、音楽を奏でるのが役目なのさ。あそこにいる人たちはみんな、何かに執着して自由な心を失っている。そのために『庭』まで行き着けないんだ」
音楽であの人たちが解放されるというわけではないが、きっかけになれば、とラフィアムは話した。
「雨の主クホーンは音楽を司る者でもあるんだ。なぜって雷鳴と雨は創世の音楽だからね。『ユークレイシスの歌』にだってあるだろう。
遠雷響くその中で
ああ! それはまったく最初の音楽だった、とね」
アニスの脳裏に再び土砂崩れの時の豪雨がよみがえる。とどろく雷鳴、暗黒の空を裂く稲光。苦しそうな家族の顔。彼は眉間に皺を寄せて、クホーンを見つめた。
「あの雨を降らせたのも、あなたなんですか?」
「そうだよ」クホーンは穏やかに答える。
「どうして、あんなひどい雨を降らせたんですか?」
クホーンは慈しみのこもったまなざしを彼に向けた。それは同時に理解され難いことへの悲しみを映していた。
「それは君の大事な家族を奪ったことに対して怒っているのかな?」
「そうです」
「家族を亡くしたことで君は何を失ったのだろう? ここへ連れて来てもらったということは、君は死が無になることではないと知っているはずだ。人は死なない。ただ、生きる形が違うだけで」
「でも……向こうの世界ではもう、父さんや母さんと一緒にご飯を食べたり、お話をしてもらったり、一緒に木の実を取りにいったり、魚釣りに行ったり、そういうことはないんです」
「家族とのぬくもりや愛に満ちた生活ということだね」
アニスはうなずく。
「しかし、彼らが生きていたとしても、その生活は永遠に続くものではない。どちらにしても、御両親やおじいさん、妹さんとは別れる時が必ず来るのだ。向こうの世界とこちらの世界にね」
アニスはうつむく。それはわかっている。
「でも、それが早すぎた、と思うかな? 君が七歳で家族を失うのと、三十歳になって失うのと、何が違うだろう?」
えーっと。アニスは考え込んだ。
「三十歳っていったら、もう大人だし……」でも、やっぱり家族が死ぬのは悲しいんじゃないだろうか。
「愛する者との別れは誰にとっても、いくつになっても悲しいものだ。まして君の場合は家族を一度に、突然失ってしまった。そのぶん悲しみが何倍にも感じられることだろう」
クホーンは尻尾の先をなでるようにアニスの肩へこすりつける。固そうに見えるが、クホーンの皮膚は猫のように柔らかく暖かい。
「人は死なない。姿が見えず、声も聞こえないかもしれないが、彼らはいつもそばにいて、君を見守っている。それは、慰めのおとぎ話ではなく事実だ。しかし、私などに聞くより、父さんや母さんに会って直接聞く方がいいだろう」
アニスはうなずいた。その瞳はまだ納得しきれていない。
「でも、やっぱり辛いし、寂しい」アニスの目からぽろりと涙がこぼれる。彼は袖で目をこすった。
「ああ、そうだね。辛いときはどんなに慰められても辛いさ。でも、一人ぼっちだった君には、もう仲間がいるじゃないか」
クホーンはそう言って、ルシャデールの方を見た。彼女は少し離れたところで、にこりともせず睨むようにこちらを見ていた。まるで、そうしていないと雨竜がアニスを連れ去ってしまうとでも思っているかのように。
楽師が今度は竪琴を爪弾き始めた。透明な音色があたりに広がっていく。歌い始めたのは『ユークレイシスの歌』だった。
「ユークレイシスの長たちが
夜半に見たのは何だったろう
幾千万の輝きをはらむ宇宙
海の底より出《い》づる泡
トンボの記憶、蛙の歌
すべては一つにつながって
銀の鎖輪となる
遠雷とどろくその中で
ああ、まったくそれは最初の音楽だった
ひとつ、ふたつ、みっつ、よつと……
水の子たちは地上へ向かう
激しく吠える大気
漆黒の空が分かたれる時
彼らは目覚め、地に満ちる
いつか再び天を目指す時まで
ユークレイシスの長たちが
夜半に見たのは何だったのか
創世から終末まで
ほんのわずかなひとときを
行《ゆ》き交《か》う小さな、小さなものたちのこと」
ユークレイシスは天空の庭よりも遥か上層にある、神霊の世界だった。すべての魂はそこに発し、邂逅《かいこう》と離別を繰り返しながら、再びそこへ還っていく。
「それまでは、ユフェリとカデリを行きつ戻りつしながら、私たちは目指すのだよ」
クホーンは穏やかに語る。
「何を目指すの?」アニスはたずねた。
「愛となることを」
「愛……」
「どの人生も目指すのはそれだけなのだよ。すべての魂は深いところでつながっている。人殺しも坊さんも、王も乞食も、パン屋も木こりも、子供も老人も、男も女も、みんな一つだった。カデリでは、そのことは忘れられてしまったね。そして、みんな他人より少しでもたくさん所有し、他人を意のままに動かそうと忙しい」
クホーンとアニスが話していると、後ろから
「お茶はどうですか?」と声がかかった。振り向くと、若い女性と品のいい初老の男がお茶の用意をして待っていた。
木のテーブルを囲んで、ラフィアム、ルシャデールは椅子に座って休んでいる。二人ともガラスの茶碗にお茶を飲んでいた。
「おお、これはありがたい」
クホーンはとぐろを崩して、テーブルのそばに寄って行く。アニスも一緒に行く。
男の人が彼にお茶碗を手渡してくれた。
「お砂糖はテーブルの上にありますよ」
「ありがとう」
作品名:天空の庭はいつも晴れている 第9章 海 作家名:十田純嘉