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天空の庭はいつも晴れている 第9章 海

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 そういったカデリでの常識は、ここではすべて意味がない。ただ、それを理解していないといけなかった。カデリの感覚を持ち続ける者には、やはり火は熱く感じるし、水の中では溺れてしまうのだ。
〈見ろ、すでに溺れている〉
 沖合でアニスは手足をバタバタもがいている。ルシャデールはあわてて走り出す。肉体がないから溺れ死ぬことはないのだが、放っておくわけにもいかない。しかし、彼女が着くより先にアニスを助けた者がいた。波の上へくいっと放り上げられている。
 イルカだった。
「うわあ!」
 空中で一回転し、再び海の中へ落ちる。だが、今度はつかまるものがあった。黒い肌の中に明るい瞳がアニスを見ている。キュキュキュキュキュルという鳴き声にかぶるように別の声が彼の頭の中に届く。
〈ようこそ、南の海へ〉
〈こんにちは、南の海っていうんですか、ここは?〉
 アニスはイルカの嘴《くちばし》につかまっていた。
〈こんにちは新顔さん〉別のイルカが言った。〈単純な呼び方と思うかもしれないが、私たちはそう呼んでいる。あの灯台から向こうは「北の海」だよ。私たちは単純な方を好む。カデリから来る人間は複雑なものがお好きなようだね。ここに人間はあまり来ない。向こうでの生を終えた者はまっすぐ橋へ行ってしまうしね。来るのはユフェレンと麻の花で壊れた者……ぐらいかな〉
〈怪しげな者ばかりだ〉もう一頭のイルカが言い、キュルキュルと声がする。どうやら笑い声のようだった。
〈君のように普通の人間が来ることは稀だよ〉
〈おお、あの子も怪しげな類か〉
 ルシャデールが当たり前のように水の上を歩いて来る。
「馬鹿だね、おまえは。空を飛べるんだから、海だって溺れ死ぬことはないんだ」
「ああ、そうか」
〈二人ともしばらくここの海で遊んでおいき〉
 最初にアニスに声をかけたイルカが、嘴でルシャデールの足を打った。バランスを崩して、彼女は水中に落ちた。落ちる間際にアニスの腕をつかみ、二人の子は水の中へ潜っていく。
 鮮やかな赤や黄色の魚が、脇をすり抜けるように泳いでいく。もちろん息が苦しいなんてことはない。透き通った水の中はよく見えた。水面に陽光が銀色に引き伸ばされて輝いている。アニスがうれしそうに笑う。それを見ているルシャデールも顔がほころぶ。イルカたちはその横をすいすいと周り、尾で二人を水上に跳ねあげる。
(なんて自由で楽しいんだろう)
 放り上げられながら、アニスは思った。あの土砂崩れがあって以来、こんなに幸せな時間はなかった。
 ふと、空中に留まって、あたりを見回してみる。二人とイルカの他は誰もいない。あくまで青い空には、ふわりと綿のような雲が一つ。海の水面にはイルカたちが上を向いてアニスを見ていた。
 ルシャデールはと見れば、すぐそばに来ていた。彼女が手を差し出す。おずおずとアニスは手を握る。瞬時に二人は風になった。旋回し、上昇、下降を繰り返し、海面すれすれに波間をぬっていく。イルカが顔を出して、二人の上をジャンプした。
「すごい! すごいや!!」アニスが叫んでいた。「こんなことができるなんて!」
今度は上昇する。と、二人の手が離れた。「うわあっ! 落ちる!」アニスが急降下していく。
 ルシャデールが叫んだ。「落ちない!」
 キュッと降下が止まり、浮いていた。わかっていても、向こうの世界の感覚はしぶとく身にこびりついている。
 仰向けになったまま宙に浮いているアニスの手をルシャデールがつかんで起こした。
「行こうか」
 アニスはうなずいた。目的地はここではない。
「またおいで」
 イルカたちがジャンプして見送ってくれた。キュキュキュキュルと笑っていた。アニスはにこにこと手を振って別れた。
「ああ、なんて楽しいんだろう」
 アニスは海の方を振り返りながら言った。
「思いのままになる世界だからね。形があって、ない。自分の思い描いたものが現れる。それがユフェリなのさ」
 あれだけ、海中に入って遊んでも濡れてはいない。
「御寮様はフェルガナに来る時、船に乗って来たんですよね。向こうの世界の海もこんな感じですか?」
「ここまできれいじゃなかった」思い出しながらルシャデールは答えた。「水の色ももっと暗くて、波はずっと高かった」
 二人は浜辺を灯台に向かって歩く。海上に船は一艘も見えない。砂の上をカニがはっている。
「あの灯台は何のためにあるんです? 沖を船が通ったりするんですか?」
「見たことない。舟遊びくらいはするかもしれないけど。あれは『時の灯台』って言うんだ。時間のない場所だけど、あらゆる『時』につながる場所でもあるって、カズックが言っていた。」
「時間がない?」
「カデリ、つまり向こうの私たちが生きている世界では、時間は過去から未来に向けてしか流れないけど、あの灯台の中では、どの一瞬も同時に存在しているんだって。どの一瞬にも行くことができる。そう聞いたけど、私もよくわからない」
「うん」
 面白いところばかりだ。帰ったらシャムに教えてやりたい。そう思ったが、するとルシャデールに連れて行ってもらったことを話すことになる。そうなるとまた、変に心配させてしまうかもしれない。だいたい、信じてもらえるのかわからない。
 
 フェルガナ、そしてその周辺の国の人間も信心深い人が多い。日の出、日の入り、正午の礼拝には多くの人が集まる。僧が説く死後の世界やよい精霊や悪霊の存在も信じている。 
 だが、信仰としての信じることと、実話として信じることは違う。とりわけ、アニスのように、ユフェレンでもない者の話は、単にほら話になって終わりそうだ。
 おそらくルシャデールも他人にはあまり話さなかっただろう。こんなにも美しい世界を知りながら、他の人間とは共有できない。それは彼女の孤独の一端をなしていたに違いない。
 彼女の方を見ると、うっすらと微笑んでいる。アニスはまた鵺鳥の話を思い出す。島ぐらいはできただろうか?

 白亜の灯台の下は崖になっていた。それほど高くはないが、浜から崖の上まで石段がついている。
「何十段、いや何百段あるんだろう?」アニスは石段を見上げた。
「五百段」自信満々の顔でルシャデールが言う。「前に数えたんだ」
「すごい」
「ここを登りきって、少し行ったら運河の舟着き場に出るんだよ」
「運河?」
「そう、舟で『橋』まで行く。橋を渡ったら、荒れ野の道があって、その先が『庭』。おまえの家族がいる。」
(本当に会えるんだ)
 そう思うだけでアニスは胸が一杯になって溢れてきそうだった。ルシャデールが階段の方へ走っていった。アニスもそれを追いかける。
「上まで競争だよ」
「うん!」アニスも駆け出した。

(子供みたいだな)
 アビュー家のドルメンから、ユフェリの二人を見ていたカズックは笑った。
(いや、どっちも子供なんだが)
 穏やかだけど人の顔色をうかがってばかりの子と人の情を知らずに育った子と。どちらも甘える大人を持たない。
 特にルシャデールは、同年代の子供と遊んだり、はしゃいだりすることすらなかった。
(不憫なヤツだ。いや、今の二人は哀れみなんか無用だな)