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天空の庭はいつも晴れている 第9章 海

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 初老の男は灯台野の守番リシャルと名乗った。若い娘は運河の船頭ヴィセトワだという。
「こちらにお客様が見えることはあまりないのですが、いらした時のために私たちが案内人をつとめることになっています」リシャルはそう説明した。
 アニスは茶碗にお砂糖のかたまりを四つ入れた。普段、お屋敷で飲むお茶は砂糖なしだ。でも、本当は甘いものが大好きだった。
「運河はあまり使われていないけどね」ヴィセトワが言った。市場で腕輪や耳飾りの売り子をしていそうな、はすっぱな感じだが、明るい娘だ。「橋は知ってる?」
「いいえ、ここに来たのは初めてなので」
「橋は冥界の入口。ここからその橋へ向かう運河があるのよ。あたしはその運河を行く舟の船頭。ほら、お菓子もあるわよ」
 ヴィセトワはテーブルの上の蜂蜜菓子の皿を差し出した。アニスはそれを一つつまみ、口に放り入れる。蜂蜜の香ばしい風味と、ねっとりとした甘みが広がる。
「体がないのに、物を食べたりできるんですね」
「食べる必要はないけど、向こうから来た人にくつろいでもらうには、食べたり飲んだりが一番よ。他に聞きたいことは?」
 知りたいことはいっぱいあるはずなのだが、思いつかない。それより、この穏やかな空気の中に、ただ浸かっていたかった。潮の匂いが風に乗って、髪を撫でて行く。
 ややあって、アニスはヴィセトワにたずねた。
「どうして普通の人は、こっちの世界を見ることができないんですか?」
「あら、見てるわよ」彼女はさらりと言った。
「え?」
「眠っている時に夢を見るでしょう? ああいう時は、たいていユフェリに来ているのよ」
「でも、こんなきれいなところは見たことないです。僕が見る夢は意味のわからないものが多いし」
「だって、ユフェリは無限だもの。あなたが今見てきた海やこの野原なんて、ユフェリ全体からしたら……そうね、砂一粒よりも小さなものよ。居心地のいいところばかりじゃないし、ちょっと怖いところだってある。どんな夢を見るの?」
 アニスはちょっと考えた。たいていの夢は目覚めると霧のように消えてしまう。
「戦争で戦ってる夢。戦っているうちにお寺みたいな所に来て、今度は兵士じゃなく坊さんになってるんだ。そして恐ろしい顔の化け物に鞭《むち》で打たれたり、火あぶりにされる」
「そりゃ楽しい夢だ」横からルシャデールが口をはさんだ。「前世の記憶かもね。きっとろくでもないことしていたんだ」
 アニスはむっとして彼女を見た。するとヴィセトワが言った。
「そうね、そういうこともあるわ。前世の記憶を夢に見ることも。そういう場合は、その前世が大きな意味を持っていることもある。だけど、ユフェリで見たことは、目が覚めた時、歪《ゆが》んでしまったり、忘れてしまうことが多いのよ。怖い夢ばかりじゃないでしょ?」
「赤ちゃんを抱いている夢もよく見るよ。すっごく幸せな夢なんだ」
「妹?」ルシャデールは控えめにたずねた。
 ううん、とアニスは首を振った。
「誰だかわからない。ハトゥラプルやピスカージェンみたいに石の家じゃなく、木の家だった。昔、あんまり幸せな夢だったから、父さんや母さんに話したんだ。大人になったらお母さんになりたいって」
 ルシャデールが軽く噴き出し、せせら笑う。
「バカじゃないのか」
「うん、大笑いされた」
 お茶を飲んだ二人は、再び『天空の庭』を目指す。ヴィセトワが舟で橋まで送ってくれるという。楽師やクホーンが船着き場まで来てくれた。
「帰りにもう一度寄るといい」クホーンが深みのある声で言った。「待っているよ」
 アニスはうなずいた。
小さな舟はゆっくりと運河を進んだ。霧の切れ間から、岸辺に咲く紫のアヤメがかいま見える。ときおり、鳥のさえずる声が聞こえた。鹿が草をはみながら舟を見送ることもあった。今のところ、彼らの他に人は全然みかけない。
 アニスはヴィセトワにたずねた。
「御寮様みたいに夢以外で……ここを訪れることができないのはどうしてですか?」
「ユフェレンは役割を担って生まれるから。でも、それ以外の人は……」ヴィセトワは考え込み、「どうしてだと思う?」と聞き返した。
「考えてもみなよ」ルシャデールが言った。「みんながユフェリにしょっちゅう来ることができたら、カデリに帰りたくなくなる奴がいっぱい出てくるじゃないか」
「ああ、そうか……」アニスもすでにそう思っていた。
 それもあるわ、とヴィセトワはうなずいた。
「『囚われの野』を除いて、ユフェリは光の世界よ。カデリには闇も光もある。場合によっては、闇の方が多いかもしれない。でも、光を光として理解できるのは、闇があってこそ。旅人にとって、闇の中に見出す人家の灯りがどれほど心強く、ありがたいものか。病気をしたことがない人には、健康のすばらしさはわからない。病人こそ、健康のよさをわかっているもの、そういうこと」
 もし、ダイヤモンドが石ころのようにその辺にごろごろ転がっていたら、誰もありがたがらない。
「幸せもそんなようなものだってことですか?」
「ええ。それを識《し》るために、みんなカデリへ生まれてくるの。宇宙には無数の世界があるけど、カデリはいいってみんな言うわ。あんな冒険に満ちたとこはそうそうないものね」