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天空の庭はいつも晴れている 第8章 ミルテの枝

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「いつだったかアニスに言われた。『御前様のような方がお父様ででいいですね』って。でも、私みたいなのが跡継ぎでよかったなんて、誰もあなたに言わない」
そう言って彼女は御浄衣処から出ようとした。トリスタンがやにわに立ちあがり、腕を抑える。そのはずみで、装飾品を乗せていた盆が飛んで、床にヒスイや水晶が散らばった。
「そんなことはない。……誰も言わないとしても、私がそう思っている」
「ありがとう。優しいね」ルシャデールはふっと口もとをほころばす。
(でも、わかってしまうんだ。あなたが心底そう思っているわけじゃないって)
 彼女は養父の手を柔らかくふりほどく。
「御寮様」デナンが呼びとめた。床の石を拾う手を止め、ルシャデールを見つめていた。「時間をかけてください。御寮様にとって、アビュー家での生活は居心地のいいものではないかもしれません。ここを出ることを含めて、その選択はあなた様のものです。しかし、神和師の継嗣に選ばれた者は、人にない稀有の才を持つのです。それは有効に使っていただきたいのです。御寮様のご器量ならばお一人になられても、それはおできになると思います。ですが、アビュー家にいてこそ、できることもあるのです。あなたの手を待つ人がいます。それをお忘れなさいませぬように」
 そう言って、デナンはルシャデールに頭をさげた。
「差し出たことを申しました。御無礼お許し下さい」
 彼女は首を振り「ありがとう」と言い置いて出て行った
 空が白んできた。隣の寺院から礼拝を知らせるシルクシュの音が聞こえる。
 アビュー家を出て行くことは、今までまったく考えていなかった。トリスタンに言われて、その道もあったかと気づいた。ここ、ピスカージェンでも、近郊の少し大きい街でもいい。以前のように辻占いをしてだったら、ギリギリの生活でもできるだろう。カズックも一緒に来てくれれば、それほど寂しくない……だろうか?  
 以前ならカズックがいてくれれば十分だった。でも、今は……。
 本棟へ戻ったルシャデールは、もうひと寝入りしようかと階段の近くに来て、玄関のドアが開いているのに気づいた。アニスが玄関前を掃除している。
「おはようございます、御寮様」
「早いね」
「はい、御前様のお出かけ前には、玄関掃除を済ませなければなりませんから」
「アニス、もし私がこの家を出て、街で辻占いをするようになって、乞食とあまり変わらなくなっても、おまえなら会えば声をかけてくれるよね?」
 家を出ると聞いて、アニスは心配そうに眉を寄せる。
「もちろんです」
 その時、二頭の馬を連れた厩番のギュルップと、荷馬を連れたエンサルがやってきた。荷馬には大きな黒い衣装箱が二つ括りつけられている。二人とも普段より上等の服を着ていた。見送りの執事が彼はルシャデールに気づき挨拶をする。
「御寮様もお見送りですか?」
「うん」
 トリスタンは悲しげな瞳をルシャデールに向け、屋敷を出た。祭りが終わって帰って来た時には、彼女はいないのではと、不安に感じているのかもしれない。
 部屋へ戻ろうとしたルシャデールをアニスが止めた。 
「御寮様、手を出してください」
「何?」
 ルシャデールは言われたままに手を差し出す。アニスはその手を自分の両手ではさむようにしてポンポンと二回軽くたたく。
「前にもしたけど、これは何?」
「元気になるおまじないです」彼はにっこりと笑い、励ますようにつけ加えた。「逃げちゃだめです」
 そう言ってアニスは一礼すると、今度は水汲みのために西廊の方へ走っていった。知らず知らずのうちに、暖かい思いが込み上げてきた。

 トリスタンは祭りの間、屋敷に戻らないようだった。時折、着替えなどの荷を届けに従僕が斎宮院と屋敷を往復している。主人のいない屋敷は静かだ。施療所を訪れる病人も普段の半分以下らしい。
「御前様が案じていらっしゃいましたよ」従僕頭のハランが本祭りの朝に言った。「明日の朝また着替えをお届けに参りますが、何かお伝えすることはございますか?」
 特に何も、ルシャデールはそう答えた。同居人と言ってしまった相手に何を言えばいいのか。しおらしいことを言っても嘘くさいだけだ。
 正午前からカズックがドルメンで煎じ薬を作り始めた。昼食後にルシャデールも行ってみると、狼男のような姿のカズックがいた。
「また今日は一段と男前だね」
「さすがにおまえは驚かないな」振り向きざまに彼は言った。「坊やは『ひえええっ!』ってひっくり返ったぞ」
 カズックは携帯こんろにかけた土瓶に向かって胡坐をかいている。人間の大人ぐらいに手足が長くなっているが、顔と体毛はそのままだ。アニスが狼男と思って怯えたのも無理はない。
「いつもの格好じゃ火を熾《おこ》したり、土瓶を持つのには不向きでな」
 確かに、肉球のついたあの前足では無理だろう。
「俺のメシはどうなった?」
 後でアニスが持ってくるよ、ルシャデールはそう答えた。厨房の使用人に頼むには、彼女よりアニスの方がスムーズに運ぶ。
 しばらくして、アニスがやってきた。左腕に薬草摘みの籠を持ち、右手には少し割れ目の入った木製のボウルを持っている。カズックの姿に、顔が少しひきつっている。
「ごはん、持って来たよ。カズック」
「おお、ありがとうよ」身をひと振るいすると、いつもの狐犬が現れた。がつがつと餌に食いつき、あっと言う間にボウルは空になる。
「そういや、おまえがいたネズルカヤ山地は狼男の伝説があったな」
「うん。悪いことをすると狼男が来て連れて行かれるよって言われた」
「ふん、あれも大昔は荒ぶる神の一人だったが、いつの間にか化け物にされてしまったな」
 煎じ薬ができるまで、まだまだ時間がかかる。
「御寮様……このお屋敷を出て行かれるんですか?」
 けさ彼女が言ったことを気にしているらしい。
「うん、いや……出て行かないよ、たぶん」
「よかった」
 アニスはそのまま薬草摘みに出て行った。

 その晩、アニスはそっと西廊の屋根裏部屋を抜け出した。
 酒を飲みながらサイコロ賭博に興じているギュルップの部屋のそばを通りぬける。聞こえてくる声から、参加しているのは庭師が二人と従僕が三人くらいだろう。大声で笑っている。
 月は出ていない。真っ暗な中を気をつけて進む。西廊の建物の角でルシャデールが待っていた。二人、手をつないでドルメンへ向かった。
 木の椀に入った煎じ薬は、ランタンの灯りに照らされて、どろっとした深緑色をしている。気持ち悪い色だなと思いながら、ぐいっと、一息に煎じ薬を飲み干す。ルシャデールとカズックが息をこらして見つめている。
 何が起こるんだろう。すると、体が波打つように感じた。ゆらゆら揺れる。すいっと体が軽くなる。寝息が聞こえた。見るともうひとりの自分が岩壁にもたれたまま眠っていた。
(ええーっ! あれは僕? じゃあ、ここにいるのは? やっぱり……僕だよね? 大丈夫かな? このまま離れたら死んじゃうなんてことないのかな?)
 誰かが腕をつかんだ。ぐいっとひっぱられ、あたりの景色が消えた。

 真っ暗な世界だなあ。冥界って本当に冥《くら》いんだ。