天空の庭はいつも晴れている 第7章 無明の闇
ルシャデールと口をきいたら、屋敷を出されてしまう。だから、ドルメンに行く時もこそこそとした態度になってしまった。彼女には、執事に呼び出されたことは話したくなかった。話せば、ルシャデールは執事に怒りをぶつけるだろう。アニスをかばってくれるとわかっているが、彼女の立場がさらに悪くなる。
それにアニスもお屋敷を辞めたくなかった。
部屋の戸を叩く音がした。
「デナンさん……どうしたんですか?」
「ナランやビエンディクにも聞かれただろうが、御寮様の行先に心当たりはないか?」
アニスは首を振った。
「行ってみたいところがあるとか、カームニルに帰りたいといったことは?」
「何も……おっしゃっていません」
そうか、と彼は出て行こうとして立ち止まった。
「アニサード」デナンは振返り言った。「揺らぐな。周りのことばかり気にすると、真実が見えなくなる。他人のそしりを受けても、自分が正しいと思ったことは信じろ」
それだけ言ってデナンは立ち去った。
(デナンさんは知ってるのかもしれない。僕がクランに脅されていることや、……もちろん、執事さんに厳しく叱られたことも。正しいと思ったことは信じろ、か。カズックも似たようなこと言っていた。そうだ!)
「カズック!」
神様なら御寮様の居場所がわかるに違いない。
「カズック」
アニスは西廊棟の廊下を小さな声で呼んで歩く。
「呼んだか?」壁から彼は出てきた。
「御寮様を探さなきゃ」
「おまえの部屋で話そう。ここはまずい」
かわいがられている『キツネちゃん』とはいえ、飼い犬ではない。屋内をうろつくわけにはいかなかった。
「帰りたくなったら,帰ってくるさ。あいつは動物の帰巣本能に近い方向感覚を持っている」
アニスのベッドで気持ちよさそうに寝そべり、カズックはあくびしながら言った。
「そうかもしれないけど、このままだと、御寮様の立場が悪くなる」
カズックはくいっと、顔を巡らせて振り向いた。
「それを心配してくれるか、坊や? 立場なんてあいつにはアリの死骸ほどの価値もないのに」
「御寮様がもうここにいたくないと言うなら別だけど……そうでないなら、気分よく暮らした方がいいよ。そういうことは大事だと思う」
「あいつは無理してアビュー家にいたいとは思ってないぞ。あいつが欲しいものは、おまえが欲しいものと一緒だ」
「何?」
「鈍いな。それじゃ侍従は務まらんぞ」
アニスは嫌そうな顔をした。最近、時々言われるのだ。嫌がらせに近いからかいのキーワードとしてだが。
「僕なんかに務まるはずないじゃないか」
「まあいい、とにかく行ってみよう。あいつが何て言うか知らないが。北だな。丘陵地帯だ」
カズックは起き上がった。
ピスカージェンの北方に広がる丘陵地帯には、人家はほとんどない。羊や馬を放牧させる時の牧人の小屋がたまにあるが、夜は無人だ。雨降りの今夜は真っ暗闇だ。
アニスは後ろを振返った。アビュー屋敷やその先のピスカージェンの街の灯りが、雨でおぼろに浮き上がっている。先の方へ様子を見に行ったままカズックは戻らない。
ランタンを掲げてみるが、照らすのは彼の周囲だけで、その先には全き闇が広がる。カズックの姿はもちろん見えない。ろう引きのマントは強い雨に、あまり用をなさず、ただ重いだけだ。
「カズック」
応えがない。少し遠くまで行ったのだろうか。
暗闇にぎゅっと締め付けられるようだ。心細い。握りしめた両手を胸に当て、動くこともできなかった。背後から、何かが迫ってくるような気がする。何か恐ろしいもの。けむくじゃらの化け物とかじゃない。
その時、闇からカズックが姿を現した。アニスはほっと息をつく。
「もう少し向こうだな」
どっちの向こうだかわからないが、アニスは犬についていく。
「ねえ、カズック」
「何だ?」
「闇の中って、どうして怖いんだろう」
「素に戻るからじゃないか?」
「す?」
「闇の中ってのは、自分しかないんだ。他に誰かいても、何かあっても見えない。見えないってことは、ないことと同じになる。自分を作っていたあらゆるものが取り払われていくんだ。名前、生まれ、職業、身分、友人、知人、性別、年齢、好きなこと、嫌いなこと。身を守ってくれたものもなくなって、残るのはちっぽけな自分だ。だから、たいがいの人間は素の自分となんか向き合いたくないのさ。そうだろう?丸裸なんだ。しかも、丸裸になった時に、心の奥底にがっちりと封じ込めておいたものが噴き出してくる」
「御寮様もそうなのかな? 不安になっているんだろうか?」
「あいつは違うな。あいつは闇の中でこそ自分を感じている。あいつは他の人間と仲よくつきあうなんてこと、してこなかった。実の母親にさえ、振り向いてもらえなかったからな。だから、素のままだ。そのことに不安も何も感じない。むしろ、今のように大勢の人の中にいる方が孤独を感じて、混乱しているかもしれないな。自分の今の立場で、どうすれば周囲や社会に認めてもらえるかなんて、あいつには理解の範囲を超えているだろうよ」
ばさっと、音がしてカズックは止まった。アニスが転んだのだ。ランタンの灯りが消えた。
「大丈夫か?」
「うん、何かにつまづいた。うわあ!」
「どうした?」
アニスが答える前に呻き声がした。
「痛い。どけて……。」
ルシャデールだった。
カズックはひと吠えして灯りを宙に浮かべる。青い鬼火はゆるゆらと漂い、のろのろと体を起こすアニスと、その下敷きになって顔をゆがめるルシャデールをほのかに映し出した。
「この不良娘、屋敷中が大騒ぎだぞ」
「トリスタンは?」
ようやく体を起こしたが、ルシャデールは立とうとはしなかった。全身ずぶ濡れだ。顔色も青い。
「お屋敷に戻っています」アニスが答えた。「帰りましょう、御寮様」
深く息をつき、彼女は濡れて額に張りついた髪をかきあげる。何かここにはないものを見ているような虚ろな目をしていた。
「風邪をひきます」
ルシャデールは答えない。
「みんな心配しています」
ルシャデールは乾いた笑みを浮かべる。
「はは……。『アビュー家の御寮様』だからね」
ただのルシャデールだったら、誰も雨の中探したりしない。彼女はそう言っているのだ。アニスの脳裏に、暗い海を飛ぶ鵺鳥の姿がよぎる。
「あなたが御寮様でなくても、こんな雨の中にいるとわかってたら、誰だって心配します」
「一時の同情や哀れみならいらない。身過ぎ世過ぎのうわべだけの心配も」
きっと、さっきのことを言っているんだ。『わきまえる、わきまえない』の話だ。アニスはどう答えていいものか、考え込んだ。ドルメンでのことを。
「御寮様……」
先ほどの自分の態度にルシャデールが傷ついたのはわかるが、だからと言ってどうすればいいか、アニスにはわからない。
「頻伽鳥が来た夜に、御寮様は僕に何をしてほしいかと、たずねたけど、御寮様はどうだったんです? 何が欲しかったんですか?」
「……誰かの一番になりたかった。アビュー家の養女だからじゃなく、ユフェレンだからでもなく。誰かにおまえが一番大切だって言って欲しかった」
作品名:天空の庭はいつも晴れている 第7章 無明の闇 作家名:十田純嘉