天空の庭はいつも晴れている 第7章 無明の闇
「かわいそうだから」ぶすっとした不機嫌な顔でルシャデールは答えた。「親なしっ子で、身寄りもなくて。ビエンディクとかに怒られたりしながら、一日中コマネズミみたいに働いて、疲れ果てて、きっと夜はぼろきれみたいに眠るんだろう? 雨が降っても雨宿りするところすらなく、道路の端で寝てたら蹴飛ばされて。畑から盗んできた泥だらけのジャガイモをそのままかじって、ろくでもないガキと石を投げられて……」
途中から自分の話になっていた。
アニスもそれに気がついたようだ。哀しげに彼女を見つめた。
「御寮様」
アニスはルシャデールの手を取った。気がつかぬうちにきつくにぎりしめていた手をゆっくりと少年はほどいていき、両手に挟んでぽんぽんと軽くまじないのように叩く。それだけのことなのに、不思議と少女の心は凪《な》いでいく。
「ごめんなさい、つらいこと思い出させて」
別に彼が思い出させたわけではない。しかし、謝罪の言葉を受け取ることで、苛立ちをアニスが吸い取ってくれたような気がした。彼の手は暖かかった。
「もし、ユフェリへ行くのがうまくいかなくても、僕はいいと思っています。もちろん、父さんたちには会いたいけど、それより、こんな風に親切にしてくれたのがとても嬉しいから」
そう言ってアニスはまだ仕事があるからと、屋敷の方へ駆けていった。
「けなげで素直な坊やだ」
「嫌味かい」
「つくづく可愛くない奴だな」カズックはつぶやいてドルメンから出て行った。
その夜、アニスの部屋にふらりとカズックが入ってきた。屋根裏の窓から外を見ていたアニスは振り返り、笑みを浮かべた。
「カズック」
「なんだ、風流に星見か」
「お祈りしていた」
「何をだ? 父さん母さんに会えるようにか?」
「御寮様が幸せになりますように、って」
「……あいつは不幸に見えるか?」
「うん……真っ暗な夜の海をひとりで飛んでいる鵺鳥《ぬえどり》みたいだ。真っ暗な中を休むところもなく、ただ飛んでいくような。」
「でも、おまえの手なら止まりそうだぞ、鵺鳥でもなんでも。狼だって手なずけられないか?」
「狼は無理だよ」
アニスは笑った。でも、小鳥やリスなどの小動物なら、できそうだ。村にいた頃、よくやっていた。それから彼は言いづらそうに口を開いた
「……僕……バシル親方とか……何人かに言われたんだ。あまり御寮様と親しくするなって。御寮様と僕は身分が違うから」
「親方はおまえがかわいいから、厄介な目にあわせたくないのさ。しかし、ルシャデールの立場で考えてみたらどうだ? おまえがあいつから離れてしまったら?」
「どうってことないよ、きっと。カズックだっているし、御前様だっている。それにソニヤさんも」
「おれは人間じゃない」カズックはつぶやいた。「だから、いるうちには入らないんだ」
「そうなの?」
「坊や、あいつはしょっちゅう、ユフェリに入っていくが、本来はこのカデリで生きていかなきゃならないんだ。」
「そうだね」
「こっちの世界で、いろんな人間と交わりながら、成長していかなきゃならない。なのに、あいつはそれを拒んでいる。使用人連中はもちろん、親父であるトリスタンにも、よそに家族がいることを知ってからは、閉ざしてしまった。おまえが今、一番あいつの近くにいるんだ。あいつを一人ぼっちにしてもいいのか?」
「それは……嫌だけど」
「大人の言うことは経験に基づいて、理想に近づく最短距離を示しているのさ。ま、世間一般の理想ってやつも、ろくでもないことが多いけどな。考えてみる価値はある。バシルの親爺にはおまえが使用人として分をわきまえているのが、正しいんだろうさ。あの親爺はおまえをかわいがっているからな。おまえにとってはどうだ? どっちが、何が正しい?」
アニスは考え込んだまま答えなかった。
「せいぜい見捨てないでやってくれ」
カズックはそう言い残してアニスの部屋を出て行った。
※ ※ ※
真っ暗な中にいた。
闇の外から声が聞こえる。
むっとする箱の中は覚えがある。
もっとも古い記憶、衣装箱の中
退屈でうたたねしていたら、声で目覚めた
あれは母の声
心配になってそっと手と頭で衣装箱の蓋《ふた》を持ち上げる
知らない男の人が母の首を絞めている
怖くなって覗《のぞ》くのをやめて、蓋をした。
オマエナンカ、イナケレバイイ
昼間言われた言葉がよみがえる。
オマエノセイデ、アノヒトハカエッテコナイ!
オマエナンカ! オマエナンカ!
ドコカヘイッテシマエ!
「かあさん!」
ルシャデールは飛び起きた。
静かで温かな闇の中。アビュー屋敷の自分の部屋にいるのだと、思い出すのに少し時間が必要だった。
昔から何度も見る夢だった。母さんは私のことなんか振り向いてくれない。餓えて冷えた心だけがいつも残る。両腕で自身を抱くように、腕をさすった。
黒々とした闇。
暗く乾いたものが満ちてくる。いっそ何もかもなくなってしまえばいい。私も消えてしまえばいい。
人は死ぬことはない。苦しかろうと、楽しかろうと、魂は想いを抱いたまま、生き続けるのだ。永遠に。
永遠。恐ろしい言葉だった。終わることのない苦しみを意味しているような。
ルシャデールは恐怖に支配されまいと、すべてを追い出していく。トリスタンもアニスもカズックも母さんも。胸に虚無が広がる。
暗い感情が高ぶってくる。何もかも嫌いだ。母さんもトリスタンもソニヤも、みんな私のことなんか考えてくれない。私のことより大切な人や大事なことがある。アニスだって、『庭』に行きたいから笑顔作って私に近づいてくる。そうでなかったら……。
〈そんなことないよ〉
ふいに、穏やかな低い声がする。暖かで、柔らかなものが突然ルシャデールを包んだ。
〈誰?〉
〈アニスは君のことが好きだよ。彼からの贈り物を届けにきたんだ。ほら〉
白い光がはじけて、ミルテの白い花が降る。その一つ一つが「御寮様が幸せになりますように」という祈りでできている。
〈ふふ、ちょっと素敵な贈り物だろう?〉
〈あなたは誰?〉
〈また会おう。『庭』で待っているよ〉
それは、もう一度ルシャデールを抱きしめるように包み込んで、消えた。
再び彼女の心が昂《たか》ぶってくる。しかし、先ほどのような陰鬱なものではない。嬉しいというのでもなく、哀しいというのでもなく。何かが心を揺さぶっている。ひたひたと満たされていく。
目からあふれるものを、押しとどめようとするかのように、手のひらを目にあてる。
こんな時は寝てしまった方がいい。ルシャデールは薄い布団をひっかぶり、しばらくの間体を震わせていたが。ゆっくりと穏やかな眠りに誘われていった。
祭りが近くなり、トリスタンの不在が頻繁になっていた。
ソニヤがおやつにピランカを出してくれた。ピランカはピスタシオ入りのシロップ漬けのパイだ。とても甘いお菓子だが、ルシャデールは好きだった。
「御前様がちょっとお寂しそうでしたよ」
ソニヤの言葉にルシャデールは振り向く。
「御寮様がドルメテに行かないのか、聞かれたものですから、あまり興味がないようだと、お伝えしたんですよ。」
作品名:天空の庭はいつも晴れている 第7章 無明の闇 作家名:十田純嘉