わたしの草原
4
わたしは、全身に汗をかいていた。息も荒い。
胸はまだ、激しく打ち続けていた。
「どうしたの?」
隣の部屋で寝ていた妹が、ドアを開けて顔を出した。
わたしはしばらく呆然としていたが、心配そうに見ている妹の姿を認めると、やがてかすれた声で言った。
「ううん。何でもないの」
「だって、すごい声だったよ。わたし、びっくりして目が覚めちゃった」
妹はあらためて、わたしの部屋の中を見回した。
「何だ! 泥棒か!」
今さらのように、父がバットを手に、やってきた。
「嫌な夢を見たの」
わたしは、二人を前に言った。
「夢?」
「うん」
わたしは、無理に微笑んで見せた。
二人はしばらく呆気にとられているようだったが、やがて父がぽつりと言った。
「まったく、朝っぱらから人騒がせなやつだ」
そして、バットをぶら下げて部屋から出ていった。
「お姉ちゃん」
残った妹が言った。
「ん?」
「どんな夢だったの?」
「……」
わたしは黙った。あれだけは、絶対に言えない。
「言えないんなら、無理しなくていいよ」
「……うん」
「もう、大丈夫?」
妹が、わたしの顔をのぞき込む。
「わたしは大丈夫よ」
「そう。じゃあ、わたし、もう一眠りするね。今日、試験なんだ」
妹が、あくびしながら出ていった。
誰もいなくなった部屋で、わたしは深いため息をつく。
とんでもない騒ぎになったものだ。
五時半を指している時計を見て、わたしはまた、ため息をついた。
「──で、自分の悲鳴で目が覚めたの?」
場所は変わって、ここは学校。寝不足と朝からの騒ぎで、案の定、貧血を起こしたわたしを支えてグラウンドから保健室へと向かいながら、美友紀が言った。
「だって……」
「分かるけどね。でも、それって結局、自分への働きかけを拒否したことになるんじゃない?」
「うん……」
わたしは力なくうなずいた。
「もっと、素直にならなきゃ」
「でも、どうしたらいいの?」
美友紀に支えられながら、わたしは妙に薄暗い廊下を歩いていた。
どうして、こんなに遠いのだろうと思いながら。
「世の中にはね、はっきりしてることなんて、少ししかないの。自分の心はどう? そのすべてを知ることはできないでしょ。でも、せめて、自分の気持ちには素直になりなさいよ」
「なんだか、お説教みたい」
少し唇をとがらせて、わたしは言った。
「そう? ちょっと、偉そうだったかな」
美友紀はわずかに微笑んでみせた。しかし、すぐに真顔に戻る。「あの声が、祥子自身のものだってことが問題よね。ともかく、もうそのことは分かったんだから、今度こそ、それに従うことね」
「うん……」
保健室は、もう目の前だった。
保険の先生に用件を伝えると、美友紀はグラウンドへと戻っていった。
ああ……。それにしても、なんてことだろう……。
わたしは、保健室の固いベッドに横たわりながら思った。
あの声は、わたしの声だった。わたしの声で、わたし自身に語りかけてくるもの。
それは、何なのだろう。そして、なぜ……?
そしてまた、わたしは一歩も踏み出すことなく、目覚めてしまった。
美友紀の言っていたように、あの夢は重大ななにかをわたしに伝えようとしているのだろうか。
そうだとしたら、一体なにを……?
わたしは、しばらくのあいだ忘れていた疑問を記憶の中から引きずり出してきて、あれこれと考えを巡らせてみた。
わからない……。
わからない。
自分自身のことなのに、これほどまでにわからないということが、わたしを苛立たせた。
あるいは、夢の中でのささやきのように、何の心配もいらないのかも知れない。それでも、わたしは気になるのだった。
そして、いつしかわたしは足りない睡眠を取り戻すかのように、深い眠りに落ちていった。
『なにも、心配はいらないんだよ……』
そう……。なにも、心配しなくていいんだ……。
『なにを、そんなに怖がってるの?』
わたし? そんなに怖がってる?
『怖がってるよ。……だって、そんなにも怯えてるじゃない』
そう? そんなに怖がってるのかな、わたし……。
空が、大地が、わたしにささやきかけてくる。そう、それは言葉じゃなく、心に直接浸みるように響いてくる。
『もっと、心を大きく開いてごらん』
心を?
『そう』
『見えるはずだよ。そして、なにもかもがわかる』
なにが……? なにがわかるの……?
『いいから』
すべてが沈黙した。
そして、風が髪を巻き上げて通り過ぎ──
その瞬間、わたしにはわかったのだ。そう、なにもかもが。
『ね』
「……」
そう、ここは、わたし自身なのだ。大地も、空も風も。その風にそよぐ草も……。
あの、かたちを変えながら大空を移ろってゆく雲さえもが、すべてわたしなのだ。
『じっとしててもいいよ。でも、じっとしてるだけじゃ、なにも変わらない』
うん。
『それは、わかってるんでしょ?』
うん……。
わたしは目を閉じた。
『だったら……』
なに?
『おいでよ』
どこへ行けばいいの?
『それは、あなたが一番よくわかっているはず。さあ……』
わたしはためらった。
こんなにも広い草原では、どこへ行っても同じように思えたから。
『さあ……』
だって……。
わたしはこのとき、はじめてこの場所に、恐れというものを感じた。
どうしてだろう。たった一歩を踏み出すのが、どうしてこんなにも怖いんだろう。
『もう、わかってるんでしょ? いつまでも、自分の気持ちに嘘をつかないで。──さあ……』
わたしは恐る恐る、片方の足を持ち上げた。
まわりのすべてが、いまは沈黙していた。
まるで、わたしが一歩を踏み出すのを見届けようと、息を詰めているかのように。
風もなく、雲さえもがとまってしまったかのように感じられた。
『さあ……』
わたしは思いきって、みどりの海原に一歩を踏み出した。
なに!?
それまでわたしを包んでいた暖かな光景は、まるで薄いガラスのように、激しい音とともに砕け散った。いや、それはあくまでもそう思えただけで、実際には全くの無音だった。
やがてそれは、細かな氷の結晶のように、わたしのまわりでキラキラと舞い、そして静かに消え去った。
わたしは、漆黒の闇の中に取り残された。
いきなり宙に放り出されて、わたしの体は支えを失い、ふわふわと頼りなげに浮かんでいた。
『いい? これからなにもかもが始まるの。そして、それはあなたが造るのよ。──忘れないで。あなたの世界は、あなたにしか造れないということを……』
闇の彼方へと、その声は消えていった。
小鳥が鳴いていた。
開け放たれた窓から入ってくる風が、少し汚れたカーテンを揺らしている。
消毒液の匂いが鼻をつき、ここが保健室だということを思い出した。
「よく眠ってたね」
美友紀が言った。
「いまは……?」
わたしは、横たわったまま訊いた。
「もう、お昼休みよ」
「そう……」
そんなに眠ってたのか……。一時間目の体育の授業のときに倒れたのだから、三時間ほども眠ったことになる。ということは──。
「あ! お弁当」
わたしは思いだして言った。