わたしの草原
3
あれほど決心をしていたのに、それ以来、わたしは夢を見なくなっていた。あの夢だけじゃなく、ほかの夢さえも。
「どう? 一歩踏み出せた?」
一週間後、興味津々の様子で、美友紀が訊いてきた。
「それがね、あれから全然、夢を見なくなったのよ」
わたしは複雑な心境で言った。「一体、どういうことなのかしらね……」
「もう、一歩踏み出してるのかもね」
考え込むわたしに、美友紀は意味深なことを言った。
「もう、踏み出したって?」
「うん」
美友紀は、微笑んでうなずいた。
「でもわたし、あの夢は見ていないのよ」
「べつに、見てなくったっていいじゃない」
「どうしてよ」
わたしは、わたし自身のことなのに、自分には分からずに美友紀だけが分かっているということが気に喰わなかった。
「それはね」
美友紀は、もったいぶって話し出した。
「夢の中の祥子よりも先に、現実の祥子の方が一歩を踏み出したということじゃないかしら」
「わたしが?」
「そう」
美友紀は微笑みながら、何度もうなずいた。
「でもわたし、なんにも変わってないよ」
「そうかな」
「どこか、変わった?」
そう言い返しながらも、わたしはどこがどう変わったのだろうと、しきりに考えを巡らせていた。
「祥子」
「ん?」
「あの夢を見るようになってから、いろんなこと、考えだしたでしょう?」
それは、美友紀の言う通りだった。それまでのわたしは、物事をそれほど深く考えることはしなかったからだ。
「うん……」
それを認めることは辛かったが、美友紀の言ったことがあまりにも当を得ていたため、わたしは渋々ながらもうなずくしかなかった。
「それだけでも、大きなことだと思わない?」
「そうかな……」
「そうよ。それまで考えもしなかったことを考えるようになるっていうのは、ある意味で大変なことなんだから」
「うん」
美友紀の話は、わたしには多分に理解できない。それでも、彼女の言おうとしていることの意味は、大体つかむことはできる。
そうか、わたしは少し、かしこくなったんだ。
つまり、そういうことなんだろう。
しかし、心のどこかでは、わたしはそれを認めてはいなかった。
違うのだ。美友紀の言っていることが完全な間違いではないにしても、どこかが違うのだ。
そう、まだ終わってはいない。
それは、わたしの内側からこみ上げてきて、静かな波のように、心の表層にうち寄せてくるのだった。
そして、わたしは夢を見た当事者としての直感で、事は始まってさえいないのだと思った。
さらに何日か経ったある日のことだった。
その日は朝から雨で、じとじとと湿っぽかった。こういう日は、心まで湿っぽく憂鬱になる。
せっかくの日曜日。中間テストも終わって、今日は久々に買い物にでも出かけようと思っていたのに……。
わたしはエアコンの低い唸りを聞きながら、灰色に沈んだ光景を恨めしげに眺めた。
まだ四時にもなっていないというのに、外は真っ暗と言ってもいいくらいに光を失っていた。
結局、その日は丸一日、ごろごろと寝っ転がって時を過ごした。
その夜、わたしはなかなか寝付けずに、明かりを消した暗い天井のあたりを見つめていた。
「あ~あ。寝過ぎたのかなあ……」
どうせ外に出られないのならと、昼過ぎまでわたしは眠っていたのだった。
わたしは寝返りをうって、もう一度目を閉じてみた。
とにかく眠るんだ。
そう自分に言い聞かせて、できるだけ体の力を抜いた。
──まぶたを透かして、光が赤く色づいて見えた。
もう、朝なのだろうか。
いやにまぶしい光で、わたしは目を覚ました。
目を開けた途端に、光の洪水が飛び込んできて、一瞬にして視界は真っ白になった。
あまりのまぶしさに、わたしは強く目を閉じた。
その光に慣れるには、しばらくの時間が必要だった。手のひらでかばいながら、薄目を開ける。
ようやく、普通に目を開けていられるようになったわたしが見たものは、一面のみどりだった。
みどり、みどり……。
そうとしか、言いようがない。
ああ……。
それ以上、言葉は出てこなかった。いや、言葉なんて、ここでは意味をなさない。なぜなら、ここにはその言葉を伝えるべき相手などいないからだ。
それだけではない。言葉なんて、ここではその意味すら失われてしまうようにさえ思えた。言葉にすれば、この草原はたちまち写真のように、切り取られた味気ない一片の「もの」になってしまうような気がした。
そう、どんなにその場所がきれいでも、どんなにそこが好きでも、その感動や思い入れまでは写しとることはできない。写真は、あくまでも切り取られた世界の欠片でしかないのだから。
草原だった。見渡す限り、みどりの草原。
わたしは、ぐるりと視線をめぐらしてみた。
なにもない……。
わたしのまわりは、草原のみどりと空の青が遙か彼方で接する地平線に囲まれていた。
どうして、こんなところにいるんだろう。
腰まである丈高い草に埋もれながら、わたしは思った。
風が吹いている。
そのたびに、草はさわさわと揺れた。
風は草原をさながら大海原のように波打たせ、幾度もわたしのまわりを通り過ぎていった。
風が、柔らかい……。
わたしは、頬をそっと手のひらで押さえた。風は、甘い薫りをはらんで、そんなわたしを優しく包み込む。
ああ、なんて広いんだろう……。
わたしは再び、広い草原を見渡した。
切れ切れになった言葉の断片が、脳裡に現れては消える。
どうして、こんなにもまとまりのない言葉しか浮かばないのだろう……。
そうか。あまりにも広すぎるんだ。そして、このわたしはあまりにも小さすぎて、心が拡散してしまったのかも知れない。
さわさわと、風が吹くたびに草が揺れる。
時おり、強い風にあおられると、それらは、ざあっ……、という響きとなって、草原を駆け巡るのだった。
草原に影を落として、真っ白に輝く綿雲が浮かんでいる。それはゆっくりとかたちを変えながら、大空を進んでゆく。怖いほどに真っ青な空に、綿雲の白は眩ゆく鮮明に映えていた。
そのゆっくりとした時の流れの中で、わたしは限りなく優しい気持ちになってゆく。
どれくらいの時間、わたしは風と陽光に身をまかせていたのだろう。不意にまわりのすべてがどよめきだして、わたしは目をすがめた。
風が来る……。
草原を波打たせて、風がわたしの方へと迫っていた。
髪が荒々しくもてあそばれる。
わたしはそれを押さえようともせずに、されるがままにゆだねていた。
「え?」
わたしは振り返った。
草原のざわめきにまぎれて、だれかがわたしを呼んだような気がしたからだ。
風が通り過ぎると、あたりはまた静かになった。時おり吹く弱い風が、耳たぶをなぶる。
だれもいない。
だれかがどこかに潜んでいる気配さえ、微塵もなかった。
空耳だろうか。
わたしはまた目を閉じ、まるでこの草原の中の草の一本にでもなったかのように、身をまかせた。
心が洗われるよう。
ああ……。わたしは、帰ってきたんだ……。
不意にそんな思いが脳裡をかすめ、はっとして目を開けた。