わたしの草原
「だって……。普通、夢の中にはいろんなものが出てくるのよ。でも、祥子のは、ただの原っぱじゃない。それだけじゃね……」
渋面になって、美友紀は言った。
「美友紀の力をもってしても?」
「わたし、魔法使いじゃないもん」
「勝手に名乗ってなさい」
美友紀はもう、とっくに食べ終わって、手持ち無沙汰に窓の外を見ている。
その間に、わたしは残りのお弁当を食べながら、午後の授業について考えていた。
やっぱり……。
「え?」
美友紀は、なにやら物思いにふけっていたらしく、とぼけたような声を出した。
「なに?」
それでも、わたしは特に美友紀にいぶかしく思われるようなことをした覚えはないので、二人が互いに顔を見合わせる何とも言い難い間の抜けた雰囲気が流れた。
「祥子、なにか言ったんじゃないの?」
「ん? わたし?」
「やっぱりって、なにが?」
どうやらわたしは、先刻の『やっぱり……』というのを、口に出してしまっていたらしい。
「うん……」
わたしは言い澱んだ。なぜなら、その考えは、あまりに突飛に過ぎるように思えたからだ。
「なにか、心当たりでもあるの?」
「そんなの、ないわ」
「だったら……」
「うん……」
やはり、言ってしまうしかないだろう。おかしな隠し立てなど、美友紀には通用しないのだから。「あのね、あの声のする方へ行ってみたら、なにか変化があるかも知れないって……」
「声のする方へ行くって……?」
「歩いてみるの」
あの夢の中で、わたしはどの方角にも、一歩たりとも進んでいない。いつも、ただ立ちつくして、無限の草原を見つめるばかりなのだ。だれかに呼ばれたような気がしても、振り返るだけで、わたしは一歩も動いてはいない。
動かないとか、動けないとか、それ以前の問題だった。わたしはその場を動こうとすらしていないのだから。
だからこそ、わたしは唐突に思ったのだった。それならば、声のする方に、それがたとえどの方角からのものなのか分からなくても、一歩を踏み出してみたら、なにかが変わるかも知れないと。
「ちょっと、祥子。そんなに簡単に言うけどね──」
「分かってる。なにも、簡単に言ってるわけじゃないの。でも、そうするしかないと、美友紀も思わない?」
実際に、夢の中で思うように振る舞うということが、容易じゃないことくらいわたしにもよく分かっていた。でも、あの夢の奇妙な中途半端さを打開するには、そうするしかないように思えるのだった。
「まあ、祥子がそこまで言うんなら、やってみたらいいけど」
美友紀は、半ば呆れたように、ため息まじりにそう言った。
午後、わたしはクラブ活動を終えて、疲れた足取りで駅のホームへの階段を上がっていた。
あと一時間もすれば、夕方のラッシュが始まろうという時刻。駅はまだ、比較的静かだった。
ぐったりとベンチに座り込む。
文化系のクラブだから、体力を使うこともあまりないはずなのだが、その分かえって、神経を遣ってしまう。
体よりも精神的に、わたしは疲れているのだった。
機械のアナウンスが流れて、反対側の線路を急行電車が音を立てて通過していった。
しばらく目を閉じて、わたしは電車が来るのを待った。
今日は、あのひとは、いるだろうか……。
ふと、そんな思いが脳裡をよぎった。
わたしの待っているプラットホームのスピーカーから、アナウンスが流れる。
〈まもなく、電車がまいります。危険ですから、黄色い線の内側まで──〉
抑揚のない合成音が、黄昏時の薄暗いプラットホームに虚しく響く。
電車が入ってくる。
目は意識せぬまま、流れゆく窓の列を見ている。
わたしは、何となくがっかりしたような気分で、扉が開くのを待った。
わたしは一体、なにを期待していたのだろう。
そう思って、ふっと笑った。
実のところ、ちょっとばかり気になる人が、この電車には乗っているのだ。年上で、おそらく大学生だと思う。だが、滅多に会えることはない。
別段、格好がいいとか、スタイルがいいとかいうわけではないのだが、何となくわたしには気になるのだった。
恋? まさか。ちょっと気になっているくらいで恋などと言っていたら、それこそきりがない。そう、それは本当に、なんとなく気になる、という程度のことなのだから。
こうして考えてみると、わたしの日常は、あまりにも多くの「なんとなく」で成り立っているものだと思う。なんとなくテレビを見て、なんとなくマンガを読み、なんとなくおしゃべりして、なんとなく憧れる。
憧れ? そうなのだろうか。
いや、そんなものでもないように思う。
なんとなく……。そう、それは本当に、ただなんとなくでしかないのだから。