わたしの草原
2
「ああ、疲れた疲れた」
美友紀が、思いっきり伸びをする。
昼休み。チャイムが鳴ると同時に、美友紀の机の上には教科書に代わってお弁当箱が鎮座していた。
わたしは教科書を鞄にしまいながら、そんな美友紀を見て苦笑する。
「その素早さ、きっとギネスブックに載るわよ」
「そう? じゃあ、今度、申請しちゃおうかな」
などと、どこまでが本気なのやら。
「ねえ、ところでさあ。あの夢、どうなったの?」
すでに、お弁当に手をつけている美友紀が、突然言い出す。
「夢?」
わたしはようやく、お弁当箱のふたを開けたところだった。
「ほら、この前、言ってたじゃない」
「ああ、あれね」
そう、あの夢のことを、美友紀にだけは話していたのだ。彼女はそそっかしくて、多分に危なっかしくもあるのだが、人の大切な秘密を漏らしたりすることは決してない。彼女の言うには、「占い師が、人の秘密をペラペラ喋っちゃったら、商売にならないじゃない」ということらしい。まあ、どこの学校、クラスにも、占いなんかに凝っている子がひとりやふたり、いるものだろうけれど、彼女こそが、その占いマニアなのだった。だからこそ、彼女はそう言うのだが、それは言わば商売の鉄則とでもいうものなのだろうか。
そんなことはともかく、美友紀はその方面では非常に長けていることもあって、あの夢のことで相談したのだった。
「あれから、なにか変わった?」
美友紀が、ハンバーグをお箸で突き刺しながら訊いてくる。
「ううん、なんにも。──今朝も見たんだけど、また同じところで目が覚めちゃった」
わたしは、ふたについたご飯粒を拾いながら言った。
「それにしても、変よねえ」
「うん」
「普通ね、同じ夢を見るってのは、なにかのお告げだったりするのよね。でも、祥子の場合は、なにもないわけでしょ?」
「うん」
わたしは最初の一口を口に入れたばかりだったが、美友紀は二つめの俵むすびに手をつけている。
「でも、あの声ってのが問題よね……」
「声かどうかは分からないのよ。ただ、そんな気がするだけで……」
「夢の中で、そんな気がするっていうのは、まさしくそのものずばりなのよ」
「どういうこと?」
わたしが問い返すと、美友紀は面倒くさそうな顔をした。
「あのね、夢は、祥子の心そのものが見てるのよ。現実のものを見てなにかを感じるのとは違って、夢は自分の心──特に無意識に忠実なの。だから、夢の中でそう感じたのなら、その感じは現実の場合の確信だと思っていいのよ」
「うん……」
昼間っから難しい話を聞かされて、わたしはあまり気のない返事をした。
ああ、また美友紀の長公舌を聞かされる……。わたしは、あの夢のことを美友紀に話したことを、少々後悔し始めていた。
美友紀はおせっかいで、そそっかしくて、その上どうしようもないくらいにお人好しなのだ。自分の趣味や知識を自慢し過ぎるという癖さえなければ言うことはないのだが、彼女は実際に頭が良くて、物識りなのだから仕方がない。その点、わたしはあまりものを知らないし、彼女を頼る以外ないのだった。
あの夢に関して言えることは、まだある。
だいたいどんな夢でもそうだが、朝方にはその記憶は鮮明であっても、昼頃になればその印象は色あせて、ぼんやりとした輪郭だけになってしまうものだ。でも、あの夢だけは、いつまで経っても鮮明なままで、頬に受けた風の暖かさまで、はっきりと思い出すことができるのだった。
それに、いつも同じところで目が覚めると言ったが、初めてあの夢を見たときは、そうじゃなかった。最初はただ、広い草原と青空だけだったのだ。あの声が聞こえるようになったのは、ここ十日ほどのこと。だからこそ、美友紀はその変化について訊いてきたのだった。
夢というものが、必ずしも実際の時間どおりに進むものではないということを、わたしは知っている。ほんの二、三分まどろんでいただけで、数時間を夢の中で過ごすこともあるからだ。このことも、わたしは美友紀から聞いて知ったのだった。
初めてあの夢の話をしたとき、美友紀は言ったものだ。
『同じ夢を何度も見るっていうのは、それは祥子の中で、なにかが変わろうとしているからよ。無意識にはそれを理解しているのに、まだ表層の意識が気づいていないの。というよりも、気づきたくないのね。でも、祥子はいずれ、それがどういうことであるにせよ、受け容れなきゃいけなくなるわ。無意識が、それを望んでいる以上はね。それが、いわゆる夢のお告げの本質なのよ』
いつもはふざけて、愚にもつかない冗談ばかり言っているのに、占いやそれに関することになると、美友紀は真剣そのものなのだった。
美友紀は、無意識について、こうも言っていた。
『所詮、わたしたちがこうだと思っている自分なんて、ただの浮きかすみたいなものでしかないのよ。地球で例えたら、陸地みたいなものね。
わたしたちは、陸地のことはよく知っているわ。でも、海はどう? 海の中でなにが起こっているのか、わたしたちはあまりにも知らなさ過ぎる。海流がちょっと変化しただけで、気候が変わったり、いろいろなことが起こる。陸地が海に与える影響よりも、海が陸地に与える影響の方が、ずっと大きいの。
人間の心も同じ。人間の心の大部分は、無意識で占められているの。わたしたちは、無意識がどうなっているのか知らない。でも、常に無意識から何らかの影響を受けているのが、人間なのよ』
その話はあまりにも難解すぎて、わたしにはそのすべてを理解することはできなかったが、おおよそ彼女の言いたいことは分かった。
そして、美友紀は最後にこう付け加えたのだった。
『ねえ祥子。何度もそれを繰り返し見るってことは、よっぽど強い働きかけよ。逆らわないで。絶対に逆らっちゃだめよ。もし、そんなことをしたら、とんでもないことになるかも知れないわよ』
「──とんでもないこと、か……」
わたしはお箸を持つ手を休めて、天井から下がった古い蛍光灯を見つめていた。それは何故か、風がなくても、頼りなげにいつも揺れていた。
「え?」
美友紀がけげんそうに、わたしの顔を見つめる。
「うん。前に美友紀が言ってたこと、思い出したの」
「わたしが言ったこと?」
「そう、夢のお告げに従いなさいって」
「そんなこと、言ったかな……」
「無責任ね」
わたしは苦笑した。「でも、わたしの夢が『お告げ』なんだとしたら、それは何のことなのかなあ」
「さっぱり分からないわね……」
美友紀も考え込む。「でも──そうよ!」
「なに?」
突然に美友紀が大きな声を出したので、わたしは危うくプチトマトを落としてしまうところだった。
「でも、だれかが祥子のこと、呼んでるんでしょう?」
「うん、多分ね」
無事だったプチトマトを口に放り込んで、わたしは言った。
「その声の主は、分かったの?」
「ううん」
わたしは首を横に振った。「ねえ、美友紀は何だと思う?」
「わたしは心理学者じゃないもの。祥子の心の中のことまでは分からないわ」
美友紀は澄まして答えた。
「もう! 勝手なときだけ心理学者にでも何でもなるくせに」