わたしの草原
すべてが無から始まる。そしてそれは、どんどん大きくなり、やがて無に還る。無は始まりであり、終わりでもある。同時に、終わりでもあり、始まりでもある。
それは確か、宇宙の創造についての話だったはずだ。
それとは無関係なのかも知れないが、わたしにはあの夢が、なにかの始まりを暗示しているように思えてならなかった。
もし、なにかが新たに始まろうとしているのだとしたら、それはいったい何なのだろう。なにが、わたしの身に起ころうとしているのだろう。
いまのままで、わたしは充分に幸福だと思っている。もちろん、小さな不満はいくらでもあるが、学校に行けば親しい友人の何人かはいるし、話し相手にも事欠かない。別段、孤独なわけでもないし、また、そうならなければならない必要も感じない。
なのに、わたしはあんな夢を見る。
どうして。どうして。どうして……?
考えれば考えるほどに、わからなくなる。
わたしだって、馬鹿じゃない。
ほかの子が、わたしのことをどう思っているのかは知らないが、少なくとも、わたし自身はそう思っている。
それに、好奇心だって、人並みに持ち合わせてはいる。
何だって、あんな夢を、そう何度も何度も繰り返し見なければならないのか。
そんなことをしきりに考えるほどに、わたしはもう何度もあの夢を見ていた。
目が覚めるのが、いつも同じところだというのも気に入らない。
けれどもそれは、わたしにとって嫌な夢ではないことだけは確かなことだった。わたしは嫌な夢を見ると、決まってひどい寝汗をかく。
もう一度、時計を見る。
秒針が、まどろっこしそうに文字盤の上を動いている。
五時五十一分。
わたしは椅子から立ち上がると、階下へと降りて行った。
わたしの、いやになるほど平凡な一日が、また始まろうとしていた。
家から学校までは、だいたい四十分くらいで着く。
シャワーを浴びてすっきりさせ、それからゆっくり朝食をとっても、充分に間に合う。わたしは以前から、よほどのことがない限り、朝食を欠かしたことがなかった。
わたしはたいてい早目に家を出る。ほんの少し早いだけで、電車の混み具合が全然違ってくるからだ。
七時二十五分発の電車だと、うまくいけば座って行けることだってある。ただし、一番後ろの車輌だけど。
みんなは少しでも長く眠っていたいと言うけれど、わたしにしてみれば、少しくらい遅く起きるよりも、空いた電車でのんびり行く方に魅力を感じるのだった。何せ、朝のラッシュときたら、それこそ息が詰まるほどなのだから。
学校に着くのは、八時少し過ぎ。クラブの朝練の子ぐらいしか、まだ学校にはいない。
いつものように騒々しくなるのは、だいたい八時二十分から三十分の、ぎりぎりの時間だ。
わたしのクラスの教室は、正門を入ってすぐの校舎の二階なので、そんな遅刻間際の慌ただしさの一部始終を見ることができる。
遅刻ぎりぎり組の顔ぶれは、いつもたいてい同じだ。駅からの道を猛然と走ってきて、遅刻するかしないか、彼女たちは一種の賭けをしているようにも見えた。
今日もまた、そんな光景を見るともなく、ただぼんやりしていると、不意に背後が騒がしくなった。
「おはよう」
だれかが放り出したままにしておいた椅子につまずいて、さらにはその近くにあった机までひっくり返して倒れ込んでいる子が、わたしに向かって言った。彼女こそ、古い言い方をすれば、わたしの無二の親友なのだった。
「美友紀、なにしてるの?」
わたしは窓辺に立ったまま、彼女に声をかけた。
「見てのとおりよ。──それより、ちょっと手伝おうって気にはならない?」
彼女は床に打ちつけた膝を押さえながら言った。
「それにしても、派手にやっちゃったもんね」
わたしは床に散乱した教科書やノート、それに、いつのものやらわからないプリント類を見つめた。
「椅子を反対側につっこんどいたのが悪いのよ」
彼女はスカートについた埃を払いながら、まだ文句を言っている。「──ちょっとくらい、整理しときなさいよね」
「美友紀が、こかしたくせに……」
机をひっくり返された子が、口をとがらせながら言い返す。「あ~あ、せっかくきれいに収まってたのに……」
きれいに収まっていたかどうかはともかく、こんな小さな机の中に、よくもこれほどたくさんの物が入っていたものだと呆れるくらいに、床にはいろんな物が散らばっていた。まあ、狭いところにいかにして多くの物を収めるかということに関しては、その子は天才的だと言うべきなのだろう。
わたしはそれらの物を拾い集めるのを手伝いながら、いつにもまして静かな朝を台無しにしてくれた親友をにらんだ。
彼女はそれでも悪びれた様子もなく、ペロッと舌を出して見せている。
わたしはそれに、ため息で応じた。
いささか慌ただしい始まりとなったが、いつもがいつも、こんな風なのではない。
わたしの名前?
そう、忘れてた。どうせ、名乗るほどのことでもないと思ってたから。
いまさら名乗るのも、なんだか変だけど、わたしの名前は祥子。そして、さっき机をひっくり返してた親友が美友紀。
私たちは、この私立の女子校の中等部時代からの仲だ。
「あ~あ。やんなっちゃう」
美友紀が、自分の席に身をあずけて言った。
「それは、こっちの台詞よ。朝から大掃除やらされるなんて、思ってもみなかった」
「いいじゃない。目が覚めたでしょ」
「ほんとにもう……」
わたしは呆れて、言葉を失くした。
授業開始のチャイムが鳴る。そして、まだ寝ぼけているような教師が入ってきて……。
「起立」
「礼」
「おはようございます」
こうして、ばかばかしいほどに退屈な日常が始まるのである。