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天空の庭はいつも晴れている 第3章 雨季の兆し

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「カミツレ畑の近くです。林に囲まれているので、外から見たら気がつかないかもしれません」
 そういえばそんな林があったかな、とルシャデールは思い出していた。アニスが案内に立ち、彼女は後をついていく。
 庭を西南から東北へと横切る小川のふちにギントドマツが固まってそびえている。銀青色の枝の内側に影を抱き、周囲に植えられているナナカマドやクヌギ、楓などと明らかに違う色合いだ。そこだけ奇妙に静まっているように見える。
 枝の張った木々の中は薄暗かった。奥へ入ってルシャデールは息を飲んだ。
 巨大な岩二つを支えにして、上に平たい天井石を据えている。小さな家ほどもあるだろうか。中の空間は大人が楽に立てる高さがある。
「かなり古いな」
 カズックは巨岩の様子を見回し、鼻をフンフンいわせて匂いを嗅ぐ。
「祭事か儀式のために作られた場所だ。ギントドマツは結界樹といって、魔除け、あるいは魔封じの木だ。悪い『気』は浄化されたようだが、跡がかすかに残っている。わかるだろう?」
 ルシャデールは小さくうなずき、岩壁に触れた。ひんやりとした岩肌から、この岩の記憶が読み取れる。
 石切り場から切り出される大岩。それを運ぶ半身裸の男たち。氾濫した川が家々を押し流す。女の子が生贄にされている様子が見える。女の子の胸から剣を抜く少年。
 両側の壁には、向かい合うように窪みがある。ちょうど祭壇にでもするような大きさだ。波のような模様が刻まれている。
「……こんなとこにおまえの御神体を置いていいのかな?」
「そっちの小さい窪みなら大丈夫だろう」
 よく見ると灯り置き用だろうか、横に小さなくぼみが見えた。ルシャデールはそっと御神体を置いた。
「僕、もう行かないといけないので、失礼します」
 アニスは屋敷の方へ駆けて行った。
「おまえ、あの坊やとはわりと機嫌よくしゃべるんだな」
 カズックが横目でルシャデールを見て言う。
「……そうかな?」
 自分でも気づいていた。きまり悪いので、とりあえずしらばっくれる。
「しかも、皮肉や罵声なしで。どうした?」
 ルシャデールはアニスの去った方をまだ見ていた。
「何か言いたげだった」
 珍しいこった、と狐犬は胸の内でつぶやいた。他人のことを、そんな気遣わしげに見るとはな。

         
「女の子にはかわいそうよねえ」
 西廊棟近くを歩いていたルシャデールの耳に、女たちの会話が飛び込んできた。雪柳の茂みからのぞくと、井戸端で下女たちが洗濯をしていた。
「結婚できないんでしょ?」
 栗毛の髪の若い女がたずねた。
「そう、お坊さんと一緒だってさ。もし破ったら屋敷とか財産すべて没収。坊主頭にされた上で国外に追放されるんだって」
 少し年上の黒髪の女が答える。
「ええー! あたしだったら絶対耐えられない。きれいに着飾るのもなし、好きな男の子とお祭りでダンスすることもなし、幸せな結婚もなし、かわいい赤ちゃん抱くのもなし、なんてさ」
 結婚できないことは最初にトリスタンから聞いていたが、さほど気にしていなかった。自分が将来誰かと結婚して子供を産むなど、想像できなかった。暖かい家庭などはるか遠い世界の話だ。
「その代わり、ぜいたくな暮らしができるけどね。それに代替わりしたら結婚できるんだから」
「でも、その時には四十か五十くらいになっているでしょう?そんなお婆さんになってからじゃ、後添えの口だってあるかどうか……。御寮様だけじゃないわ、トリスタン様だって恋人も作れないんじゃお寂しいでしょうね。お優しくて素敵なのに」
「そこは……うまくやってるみたいよ。ここだけの話、御前様にも」黒髪の女はあたりを見回した。「奥様とお子様がいるって噂よ」
「えっ、そうなの?」
「噂よ。今日だってそこに行ったのかもね。でも、これ本当に内緒の内緒よ。御前様がそれで斎宮院から罰を受けるようなことになったら、私たち仕事なくなっちゃうんだから」
「そりゃそうね」
 二人の女は立ち上がり、洗い終わった衣服を籠に入れて干場に持って行った。

(ふーん……やっぱりそうか)
 別に驚きはなかった。トリスタンに好きな女性がいても、何の不思議もない。たとえ神和師かんなぎしであろうとも。驚きはしないが、急に世界が色あせたような気がした。
(どんな子だろう)
 何歳ぐらいなのか、男の子か女の子か、かわいい子なのか。
 彼女は目を閉じ、意識をトリスタンに向ける。薔薇の花が咲いている。薄いピンクや赤、白、オレンジ。つるばらのアーチもある。どこかの庭だ。
 ふくらはぎに柔らかなものが触れた。カズックのしっぽだった。
「トリスタンに子供がいるとさ……」
「踏み込まない方がいい領域もあることぐらい、おまえはわかっていると思ったけどな」
「うん、でも……」
 おれはついて行かないよ、とカズックは背を向けて去った。
 彼女はしばらくその場で考え込んでいたが、ふいに空を見上げた。雲の流れが早い。空気が湿っている。それは雨の予兆だったが、西側のレンガ塀の崩れへ向かった。

 ルシャデールは道に迷うことがない。カズクシャンの古い町は、迷路のように入り組んでいたが、どんなに遠くに行っても目指す場所へ行けた。というのも、彼女は直感的に道がわかるからだ。行きたい場所を頭に浮かべると、右へ行くか、左へ行くか、それとも直進するか、どこからか答えが降りてくる。
 どうしてわかるかと聞かれても、なんとなくそう思うという程度のあいまいなものだが、間違ったことはなかった。昔、カズックの祠に辿り着いたのも、その直感のなせる技だ。
 ピスカージェンの街を一人で歩くのは初めてだが、今度もうまくいくはずだ。カベル川を渡り、通りに沿って南東方向へ向かう。
 舶来市場の横を通り過ぎた時だった。
「御寮様」
 呼ぶ声に振り返ると、アニスがいた。お使いの途中だろう。青い小瓶を手に持っていた。
「どうなさったんです? お一人ですか?」
 供も連れない外出に不審を抱いているようだ。
「あ……あ、えーとね」
 こんな早く誰かに見つかるとは思っていなかった。しかも、子犬のようなアニスに。上等の服を着ていても、中身は『辻占いのルシャデール』のままだ。今の身分や状況に応じた自然なごまかし方が思いつかない。
「おまえ、秘密は守れるかい?」
『秘密』と聞いて、アニスの顔は真剣な表情に変わる。
「はい、守ります」
「これから秘密の場所へ行く」彼女はとても重大なことのように深刻な顔をしてみせた。「このことは屋敷の人にも、それ以外の人にもしゃべっちゃいけない。わかった?」
 アニスはうなずいた。
「ついておいで」
 茶店、酒場や宿屋などの並ぶクズクシュ地区の繁華街を抜け、ムスタハンの貧民街に入ると、すえた臭いが漂ってくる。薄暗い路地の隅には、ぼろ屑のように寝転がっている者もいる。生きているのかよくわからない。かつての自分のようなみすぼらしいなりの子供が小路を走っていく。絹ものの新しい服を着たルシャデールは明らかに目立ち、通りかかる大人が目を止めていく。
 彼女はちらりと太陽の位置を確認する。どうやらかなり南の方へ来ているようだった。アビュー屋敷はピスカージェンでも北の端に位置するので、街の正反対の方だ。