天空の庭はいつも晴れている 第1章 辻占い
「いい眺めだ」いつの間にかカズックがそばに来ていた。「昔はすべておれのものだったんだが」
カズクシャンとは『カズック神の都』という意味だ。街のあちこちにカズック神の寺院があったという。ルシャデールが辻占いをしている広場の寺院も、元はカズックが祀られていた。
「彼のことは聞いたことがある」カズックは風の匂いにふんふんと鼻をひくつかせていた。「腕のいい……そうだな、この近隣の国でも五指に入る癒し手だぞ」
「ふうん」そういう順位づけには興味がなかった。
「行くのか?」
幸か不幸か、何のしがらみもない彼女は身一つで動ける。
「どうでもいいや」
彼女は空を見上げた。
「おまえの親父はフェルガナから来たとか、前に言ってたよな」
母はこの街の生まれだが、父はフェルガナ人だったと聞いたことがある。しかし、それ以上のことは知らない。彼女が生まれる前に父親は失踪。母のセレダは半狂乱になって捜したらしいが、行方はわからなかった。
赤ん坊を抱えての生活が楽なはずがない。周囲からは里子に出すよう勧められたようだ。それを頑として聞き入れなかったのは、夫が戻ってくるのを信じていたからだろう。
だが、一年、二年と時は過ぎ、生活は荒《すさ》んでいった。
ルシャデールの記憶にある母は、振り乱した髪で酒を飲み、怒鳴り散らす女だった。最初に言われたのはいつだったか……『おまえなんか、産まなければよかった』と。
「親父の方の親戚とか、いるんじゃないのか?」
「関係ないよ。いたとしても、わたしのことなんか知らないに決まってる」
別に会いたいとも思わなかった。
再びトリスタンという男の顔を思い出す。
「養子ってことは、あの人が私の父親になるんだよね?」
「そりゃ、母親にはならんだろう」カズックは飄々と答える。
孤児の身に降ってわいた福運なのだろうが、実感はない。それに、はい、そうですかとついていけるほど、彼女は人を信じていなかった。
母ですら彼女に背を向けたのだ。母が想うのは行方の知れない父のことだけ。たまに、彼女に父の面差しを求める時だけ、振り向いてくれた。そして、最後には彼女のことを一顧だにせず逝った。だが、そんな母でも世間の荒波から守る防波堤の役割は果たしていた。その後に味わった辛酸を思えば。
無関心な人、冷たい人、攻撃的な人、蔑んだ目を向ける人。わけのわからない怒りをぶつけてくる人。ルシャデールにとって世の中はそんな大人で溢れていた。たまに「かわいそうに」と言ってお菓子やお金を恵んでくれる人もいたが、中途半端な憐みなど、自分がみじめになるだけで不愉快だった。
ルシャデールは翌日、翌々日と、いつも通りに辻占いに出た。
フェルガナ行きについては、何も考えていない。行こうと行くまいと同じような気がした。今の生活は確かに不安定だが、豊かな落ち着いた生活を望んでいるわけでもない。死ぬまで、ただ生きるだけだ。
「売り上げをよこしな」
気がつくと三、四人の少年が目の前に立っていた。彼女より少し年上の、浮浪児の一団だ。盗みや脅しを生業としており、ルシャデールも何度か金を巻き上げられたことがある。リーダー格のスラシュは身体も大きく、腕っぷしも強い。
首から下げた頭陀袋をルシャデールはしっかりと抑える。六感をめいっぱい使って逃げ道を探すが、四人に囲まれるとあとは後ろの噴水しかない。いつもなら、もっと前に気がつくのに、とくちびるを噛む。
「いいからよこせ!」
少年たちの中で二番目に年長のスラシュが袋に手をかけ、引っ張った。ルシャデールははずみで前のめりに倒れ込む。膝と、顔をかばった左ひじに衝撃を感じ、ひりひりと痛む。
だが、袋はまだ取られていない。その時、「うっ!」という声とともにカシャンと何か割れる音がした。
「何をしているんだ!」鋭い声が響いた。
顔を上げると、目の前の割れた素焼きの茶碗の向こうから、見たことのある男が近づいてくる。
「やばそうだ、逃げろ」少年たちはただならぬ気配に逃げ出した。
「大丈夫ですか」
彼女の前に膝をついたのは、トリスタン・アビューの従者だった。話し方も表情も柔らかで気品を感じさせるが、その隙のない物腰は武術に秀でた者だけが持つものだ。
「血が出ています。主《あるじ》が近くの本屋におります。手当しましょう」
こんなもん舐めときゃ治る。そう思ったが、またスラシュたちが戻ってくるかもしれない。きっと近くで様子を見ているだろう。ルシャデールはついていくことにした。
金物通りの入口まで来た時、茶店のおやじが走り寄って来た。
「ああ、あんた。困るよ、客の飲んでいる茶を取りあげた上に、茶碗を放り投げてしまうなんて!うちの茶碗はコルヴェデから取り寄せた特注品なんだ。」
怒っている割に、眉根は下がって、腰が引けている。彼の腰に下がる剣が気になるようだ。
「これで足りるだろう」
トリスタン・アビューの従者は財布から銅貨三枚渡した。それから何事もなかったように「まいりましょう」と、ルシャデールを促した。
金物通りの中ほどにある本屋にトリスタン・アビューがいた。本の値段について店の主人と交渉しているようだ。
「トリスタン様」
呼ばれて彼は振り返った。そしてすぐ、ルシャデールをみとめた。
「どうしたんだ、ケガをしているじゃないか」
彼の従者が仔細を説明してくれた。
「私の宿へおいで。手当をしよう」
連れて行かれた黒猫亭は一階が酒場兼食堂になっており、二階と三階が宿泊用の部屋になっていた。宿屋の中でも貴族や大商人しか相手にしない上宿《じょうやど》だが、その中でもいっとういい部屋に彼らは泊まっていた。
木や草の彫り物をほどこした椅子にすわり、ルシャデールはきょろきょろと部屋を見回す。細かな編み目で花の模様を作ったレースのカーテン。かかっている窓はもちろんガラスが入っている。壁のタペストリーはオズレン織だ。狼と犬を従える月の女神をモチーフにしていた。
トリスタンは血や泥を洗い、彼女の額に手のひらを当てた。
彼を包んでいる光がぐん、と力を帯びてふくらんだ。
一つの場ができる。大地の核と宇宙の深奥が癒し手を通してつながり、彼の中で強い一つの光の柱となる。黒猫亭の部屋は消え、真っ白い光の空間にいた。トリスタンの手からルシャデールの傷に暖かな気が流れ込んできた。それは彼女の額から入ってきて、首へ心臓へ、体の隅々へと循環し、今度は汚れた気を外へ排出させる。
癒し手から治癒術を受けるのは初めてだった。掃き溜め小路で黒いマントを着た婆さんが、手を当てて小さい子を癒しているのは見たことがある。婆さんの頭上から光の柱が立っていたが、これほど太くはなかった。近隣の国で五本の指に入るのは嘘じゃなさそうだった。
まもなく手当は終わった。さわってみると、血は止まり皮膚も元通りに治っている。すりむけた膝小僧も同様だ。
トリスタンは水の入ったコップをルシャデールに差し出した。
「お飲み。手当のあと、頭がぼーっとする人もいるんだ」
作品名:天空の庭はいつも晴れている 第1章 辻占い 作家名:十田純嘉