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天空の庭はいつも晴れている 第1章 辻占い

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 ごくごくと水を飲み干す。ルシャデールは目の前の男を見た。この人もまわりも、どれだけすごいことをやっているのかわかっているんだろうか。病気やけがを治す便利な人、ぐらいにしか思ってないんじゃないか?
 ルシャデールは体の中に注がれた暖かな力を思い起こす。この人が父さんになるのか。知らず知らずのうちに心が和む。だが、口から出る言葉は投げやりな口調だった。
「どっちでもいいよ」
「え?」
「行ってもいいよ、行かなくても」
 トリスタンは手を止め、彼女の正面に回った。
「それは来てくれると受け取っていいのかな?」
「言葉通りだよ、どっちでもいい」
 ルシャデールはぷいと、横を向く。たまに、こんな気まぐれもいいさ。もし、そこでの生活がうまくいかなかったら、また辻占いに戻ればいいだけだ。一人でも生きていける。
 
「行く事にしたのか、結局」
 その晩、祠に戻ったルシャデールにカズックが言った。
 出発はあさってだという。トリスタン・アビューはそのまま宿屋に一緒に泊まるよう勧めてくれたのだが、断った。雨漏りもする祠だが、三年も住むと愛着もわく。
「おまえはどうする?一緒に来るかい?」
 カズックとは別れたくなかった。といって、『心細いから一緒に来てほしい』と言えるような素直さは持ち合わせていない。
「食い物は間違いなく今よりいいはずだよ」さりげなく誘ってみる。
「そうだろうな」
 カズックは祠を見回し、感慨深げにつぶやく。
「俺もここは長いからな。街も、この祠も。何百年たったんだか……」
 ルシャデール以上に愛着があるのかもしれない。来ないというなら、それも仕方のないことと思っていた。
「潮時かもな」
「え?」
「ついてってやるよ」
 仕方ねえな、という口調でカズックは言った。
「別に来なくてもいいよ」
「明日もここに寝るのか?」
「午後に黒猫亭へ行くって言った」
「そうか。じゃ、御神体を頼むな」
 カズックは御神体がないと長くこちらの世界にいることはできない。もともとユフェリに属する者なのだ。御神体がこちらの世界に彼をつなぐ依代になっている。
「うん」
「船旅になるんだろ、海に落とすなよ」
「わかってるよ、うるさいな」
 祠で過ごす最後の夜だった。


 翌朝、市場の茶店で干し果物と米のスープを朝食代わりに飲むと、オストーク通りへ向かった。そこは酒場と怪しげな店が立ち並ぶ。夜は紅灯に彩られる通りも、朝は厚化粧がげた女のように汚れ、明かりに使った獣脂ろうそくの臭いが鼻につく。
 ほとんど人通りはなかったが、崩れかけたようなアパートの前で女が伸びをしていた。
シュミーズの上に派手なガウンを羽織り、焦げ茶の髪は飛び跳ねている。女はルシャデールを見て、あら、と声を上げた。
「ルシャデールじゃない?めずらしいわねえ。辻占いしてるんですってね。あんたはそういうこと向いてると思ってたわ」
 かつて、階下に住んでいたベニエラだった。
「うん。部屋は誰か入った?」
「入るわけないじゃない」ベニエラは眉をひそめ、声を低くした。「首括りのあった部屋なんてさ。セレダさんは可哀そうだったけどね……。でも、大家も因業だわ。どうせ人が入らないなら、あんた一人ぐらいおいてやってもよかったのにさ」
「見せてもらってもいい?」
「いいけど、何もないわよ。鍵は開いてると思うわ。」
 ルシャデールが住んでいた頃から鍵は壊れていた。金にしぶい家主は直していないらしい。盗人に入られるような物持ちはこんなところに住まないだろうが。
 狭くて暗い階段を上り、三階の二番目の部屋だった。ドアはギイイと陰気な音をたてて開いた。石の床がむき出しの、がらんどうの部屋がぽっかりと前にあった。追い出された時に少しばかりあった家財は、滞納した家賃のかたに、大家に取られてしまった。おそらく古物屋にでも売り払ってしまったのだろう。
 壁の落書きだけが、そのまま残っている。ルシャデールが三才くらいの時に描いた母の絵だ。長い髪の女性が笑っている。
 天井を見上げると、太くて黒い梁が一本通っているのが目につく。
「まだ……そこにいるんだね」 ルシャデールは虚空に向かって声をかけた。彼女の目には見えている。梁からぶら下がったままの母の姿が。
「遠くへ行くことにしたんだ。もうここへは来ない。……さよなら」
 ちょっとの間、母を見つめる。それから踵を返して部屋を出た。

 
 二日後の朝、ルシャデールはカズクシャンの街を発った。
 カラプト川沿いの街道を西に向かい、金開湾を望む港町パウラで船に乗った。パウラからは沿岸の街に寄港しながら南へ向かう。泊まるのは港の宿屋だ。
 初めての船だったが、幸い彼女は船酔いをしない性質《たち》らしく、航海中はほとんど甲板で過ごしていた。一方、彼の養父となる男は、海上ではひねもす船室にこもり、宿屋ではほとんど食事も取れずにベッドに伏せっていた。
 自分の体調不良ぐらい治せないのか、と思ったが、それは黙っていた。まるで拷問を受けた罪人のように哀れな姿だったからだ。侍従のイェニソールはたいていは主人のそばについていたが、時折、ルシャデールの様子を見に来ていた。
「何か、島でも見えますか?」
 ルシャデールは首を振った。海原は果てしなく広がっているだけだった。
 何があるんだろう、この海のずっと向こうには。ぼんやりと考える。
「ユフェリが空の果てなら、海の果てにあるのは地上の楽園かもしれないですね」
 ルシャデールはこの侍従の心がすっと、自分に添ってきたのを感じた。思わず、彼の顔を見上げ、
「考えていることがわかるの?」とたずねた。
「いいえ」彼は静かに答えた。「海を見た時に、誰もが考えることです」
 彼女はそっと服のかくしに入れた御神体に触れた。祠に祀ってあったカズックの御神体だ。彼は今この小さな石の中に入っていた。