欠けた月の暗闇の中
指先
毎週火曜金曜の午後3時からの加奈の演奏時間に、廣木は姿を見せたが、加奈を誘うことはなかった。約束を守る廣木の態度は、1度だけと誓ったはずの加奈の気持ちを惑わせた。ホテルでの廣木の強引な攻め方は、犯されるスリル感を加奈は感じてしまったのだ。夫の雄一からはとても感じられなかった女の悦楽であった。廣木の身体をなぞった指が、今はG線からA線へと動き弓は音を奏でる。しなやかで気品に満ちた指が、快楽を求めていたとは、それ以上に気品のある加奈の顔が、あの時はどのような顔だったのかと、加奈は見たい気がしていた。そんなことを考えながらも、気持ちにゆとりがあり、たとえ音が外れたところで、自分自身の責めにはなるが、耳の肥えた客はいない安心感があった。ほとんどの客は、胸の大きく開いたドレスから覗いたバストがお目当てなのだ。グラビアアイドル顔負けの容姿とバストなのだ。いまだにウエストは60を切っている。
音大の中でも加奈は卒業時に5番以内の成績であった。海外に留学する者や、教師の道に進んだ者、加奈は管弦楽団の団員に運よく選ばれたのだ。とは言っても、団員の給与は5万円ほどの手当てでありバイトをしなくては生活はできなかった。親からの仕送りは、卒業までの約束であったから、親を頼ることはできず、給与が20万円入ると嘘を報告していた。1流を目指す気持ちはどんな苦労にも耐えることができたのだ。夢は強い力になる。加奈はそんなことを知った。
才能は努力だけのものではない。やはり感性と天性のものなのだと加奈は知らされたが、加奈はそれでも努力することを諦めなかった。演歌歌手の演奏で加奈の所属する楽団が、テレビに映ることになった時、加奈は親に知らせた。1秒ほど映っただけで親は録画した画面を何度も見てくれたのだ。有名になりたい。加奈の願いはそれだけであった。