欠けた月の暗闇の中
ホテル
演奏会が終わって間もなく、廣木がカフェに来た。まだ、デイトの約束が実行されない催促であることは加奈には解っていた。一度は体の関係を決心したはずであったが、余裕の金ができると、加奈は廣木に返金したいと申し入れたのだ。
「僕の絵は6号でそのくらいには売れる。僕は君が欲しい。お金ならあと30万円出してもいい」
そう言いながら、大胆に加奈の胸に手を当てた。8月の暑さで、加奈は薄着であったから、廣木の大きな掌は、胸を包み込むように感じた。幸い客は奥のテーブルにいたので、その様子は誰にも感づかれることはなかった。ただ、加奈は強引な廣木の行動に、ここ、半年余り、夫との関係を断っていたこともあり、敏感に反応していた。気持ちでは廣木との関係を断ちたいと思いながら、体は求めていたのである。加奈はあえて拒絶しなかった。こうした場面に慣れているのだろう、廣木は加奈を椅子に座らせた。タバコ臭い息が加奈の唇に近づいた。舌を絡めてきた。不快に感じた匂いであったが、廣木のテクニックに陶酔すると、不思議なことに、快感にさえ思えてきたのだ。これ以上はいけないと加奈は思った。
「店を閉めます。ホテルに行きましょう。1度きりですから」
冷房の効いた店であったが、加奈の身体はしっとりと汗をにじませていた。
廣木の身体は体毛に覆われていた。何人かの男関係のあった加奈ではあったが、クマのようなと言った表現が当てはまる感じである。71歳の年齢はみじんも感じさせない元気さであった。加奈自身割り切った気持ちでいたから、廣木の男らしさは、夫からは感じられない快感でもあった。後ろめたさや秘密の情事、麻薬もこんな魅力があるのだろうかと加奈は思っていた。1度だけ1度だけと心でつぶやきながら、乾いた声が、指先が廣木の身体に食い込んで行く。音楽を奏でる自分の指が、廣木の体の音階を探しているのかもしれない。
廣木は柔らかな筆を使い始めた。
「君の身体に絵を描こう」
「どんな絵を」
「花火」
「花の命も短いけれど、花火は一瞬よね」
「君と僕の関係みたいなものさ。だから強烈な印象が残るかもしれないよ。君はそんなもの残したくはないだろうね」
「えぇ。家庭がありますから・・・」
「家庭って何だろうか?僕は上手くやれなくて、離婚をしたんだ」
「私は少しの我慢なら子供のために、離婚はしたくないの」
「でも、経済的にも人間としても、夫より優れていれば?」
「今の私には、愛もお金も必要はないから、自由が欲しいの。無理だと思う」
廣木の筆が快感であったが、会話が進むと何も感じなくなっていたのだ。