短編集55(過去作品)
別に何かがあったわけでもなく、精神的に変わったわけでもない。ただ溜まりきったストレスを解放できる節目だったと思えば、そう思えないこともない。
――皆も同じような思いで、受験勉強しているんだ――
と思ったのも視界が黄色くなっている時だった。
だが、人のことを考えると、胸が締め付けられるような錯覚に陥る。今までは漠然として感じていたものをハッキリと感じるようだったが、それは風だったり、暖かさや冷たさだったりという自然現象である。
――そんなことすら感じなくなっていたのね――
と受験の時期の自分がどれほどの寂しさを持っていたか、思い知らされたような気がする。
大学を卒業して、すぐに知り合った人と一年の交際の後に結婚してしまった。相手がどうのというわけではなく、結婚したことへの不安はずっと付きまとっていた。
不安の原因は、大学を卒業してからすぐに結婚したことではない。結婚ということ自体にずっと不安が募っていた。
だが、学生時代から結婚に憧れていたのも事実だ。自分が主婦になることは別に不安でも何でもない。
「専業主婦をやってくれ」
もし、夫になる人から言われれば、それも別に大した抵抗もないだろう。仕事に未練があるわけでもないし、主婦業が大変なことも分かっている。むしろ両立しているつもりで中途半端になってしまうことを嫌うくらいである。
では一体何に不安があるというのだろう?
夫になる人を見る目に不安があるわけではない。自分のことを好きになってくれて、自分も相手のことを好きになる。それだけのことではないか。
金銭的なこと? それとも将来への不安?
もっと漠然としたものだった。
それは就職への不安に似たものがある。大学を卒業して就職した時も、一抹の不安があった。仕事をすることに対しての不安があるわけではない。大学生に未練があるわけではない。もっと遊んでいたいという気持ちもなく、年齢的にも就職することへの気持ちが高ぶっていた。
どこかで開き直りがあったのは事実だ。不安が一気に消えて、入社する頃には、大学時代がかなり前のことだったように思えてならない。
「君たちは今日から社会人なんだから、その自覚を持っていただきたい」
と、入社式での社長の訓示を聞いて、襟を正したのは、むしろ大学時代とは違う自分に誇りのようなものさえ持っていたからだ。
入社してすぐには、就職活動時代の方が不安だったように思えた。就職自体に不安があるのに、不安を残したまま就職活動をしなければならない自分が分からなかった。
分からないことへの不安ほど、怖いものはない。
漠然とした不安は、これから踏み出す社会への分からないことがすべてだった。しかし、実際に就職してしまうと、懐に入ってしまったも同然、慌てても仕方がない。むしろ、懐に入ることすらできなければ、もっと恐ろしい状態だったに違いない。就職できたことを素直に喜ぶべきなのだ。
だが、同じ入社式で、
「社会人になっての心得の一つとして、いい悪いの判断よりも前に、上司の命令には素直に従っていただきたい。諸君が出世していくにつれて分かってくることなので、理由は控えたいが、それが心得だと思っていただきたい」
これは、社長の訓示の後の、総務部長の話だったが、矛盾しているように聞こえた。
「社会人としての自覚を持ってほしい」
という社長の話から考えると、明らかにおかしな話だった。それだけに入社式から新人研修にかけての間、ずっと頭から離れないことだった。きっと仕事をしている間、離れることはないかも知れないと思っていた。
どちらかというと、典子は従順な方である。あまり人に逆らうこともなく行動する。それが自分の長所だと思っていたが、ただ、今まで自分のまわりにいた人が、同じような考え方の人たちばっかりだったというのも否定できない。
「類は友を呼ぶ」
というがまさしくそのとおりだ。
だが、社会人になってからは、あながちそうとは言いがたい。同じような考え方の人ばかりと付き合っているわけにはいかない。同じ部署の中にもいろいろな考えを持った人がいるだろう。最初の頃はなかなか腹を割って話すこともないので、何を考えているか分からないが、きっと、話してみると考えが違っている人もいるに違いない。
総務部長の話が頭をよぎる。
あまり話をしない人でも仕事をしている時は命令を受ける。その命令の主旨が分からないことがあっても、それをいちいち確認していては仕事がスムーズに進まないこともある。新入社員の立場でそれを確認するのは難しい人もいるということが典子には分かっていた。
――なるほど――
何となくだが、納得できる。
どんなに理不尽な命令でも、上司の命令にしたがわなければ命令系統が崩れてしまい、会社の業務が成り立たなくなってしまう。それだけ命令する人には責任がのしかかるのだ。命令されて忠実に実行して失敗すれば、責任は命令した人になる。だから、命令する人は責任のある立場の人なのだ。
これが社会の仕組みというものだろう。このことが分かってくると、就職する時に抱いていた不安が払拭されてきた。社会に慣れてきたということもあるだろうが、社会人としての自覚が芽生えてきたと言った方がスマートである。
典子のセクションは、主に自分の部署内での流れというよりも、他の部署とのやり取りが中心だった。
他の部署でできあがった原稿を持ち帰り、最初に吟味して部内に渡す。そして部内で構成されたものを、今度は他の部署にまわす。入り口と出口を任されているようなものだった。
同じ部署内での仕事よりも、他の部署と携わっている方が典子は楽しかった。自分に向いていると思っていたのである。
会社では意外と部署間の不満が根底にあった。それはどこの会社でも同じなのだろうが、最初の立案がキチッとしていないと、次のセクションでうまく構成できない。それも不満に繋がるし、時間的にもギリギリに渡されては、うまく吟味する時間もなくなってしまう。
「もっと早く出してくださいね」
立場上、そう言わなければならない時が一番辛かった。言われた方も、
「すみません。ちゃんとするように部署内で話をしてみます」
と平謝りである。
彼もまだ新入社員で、自分のセクションの仕事に浸かっているわけではない。
典子の会社では、部署間の連結を行う仕事を新入社員にさせるような気配りがあるようだ。これも研修の一環になっていて、いきなり仕事の本質に入るよりも、部署間がどのように繋がって一つの仕事をこなしているかということを身をもって体験させる意図があるようだ。ありがたいことであり、素直に仕事に打ち込めた。
新入社員の彼の名前を青木信也という。青木は、いつも一人でいるイメージがあったが、一人が似合うように見えた。
話をしても、仕事に関しては他人事だった。自分の仕事がまだないのと同じなのだから、無理もないことかも知れない。だが、男性というのはそういうものではないだろうか。女性に比べて一生のものだという意識が強ければ、特にそう感じていることだろう。
作品名:短編集55(過去作品) 作家名:森本晃次