短編集55(過去作品)
黒い手帳
黒い手帳
陣内瑞枝は、黒い手帳を持ち歩くのが日課だった。
手帳を買ったのは三年前、文房具屋に寄った時に一緒に買った。今ではぎっしりと書き込まれた年季の入ったように見える手帳であるが、買った当初は使うのがもったいないくらいに見えたものだ。
あまり整理整頓が得意ではない瑞枝は、モノを捨てるのが怖い。もし捨ててしまって後でいるものだったら怖いからだ。
だから、モノが捨てられずに残ってしまう。最初から整理していればそんなことはないのだろうが、いるものなのかいらないものなのかの区別もつかなくなってしまう。
何とも悪循環である。分かっているのだが、捨てるのがどうしても怖いのだ。
女性としては致命的な性格かも知れない。六年前に結婚したが、結局結婚生活は三年しか続かず、離婚してしまった。ハッキリとした原因は分からないが、お互いに性格の不一致だと思っている。
夫が瑞枝に感じた中に、整理整頓ができない性格が含まれていることは間違いない。ものぐさというわけではなく、几帳面な一面も持ち合わせているのだが、どうしてもモノが残ってしまうのが目立ってしまう。
新婚時代からモノが残ってしまうことを注意されていた。だが、生まれ持った性格だと思っているので、なかなか聞く耳を持たない。聞いてもすぐに右から左、自分でどうしていいか分からなくなる。
悪循環が余計に考えを袋小路に追い込むのだろう。瑞枝にも分かっているのだが、自分ではどうすることもできない。
一方の瑞枝が夫に感じたのは、物足りなさだった。
大きな心で包んでくれると思っていたのだが、結婚してみると、自分中心の考えが次第にハッキリしてくる。それでも新婚時代には、見え隠れする程度だったが、自分のことを棚に上げて注意をしてくる夫を心の底では情けなく思っていた。
夫婦のうちでどちらがしっかり者かと聞かれれば、間違いなく瑞枝の方だろう。勝気な性格で、友達も多く、町内会でも集まりには瑞枝が出かけていた。
そういう面でも夫に対して物足りなさを感じている。物足りなさというよりも、そんな人と結婚してしまった自分が情けなくて、泣けてくるくらいである。
それでも交際期間中は、しっかりした一面を見せていた。
そこに惚れ込んだのも事実で、最初から分かっていれば、まさか結婚まではしなかっただろう。
結婚して分かってきたのは、横着な性格であった。整理整頓が苦手な妻に横着な夫、これでは結婚生活を営んでいくことは不可能に近いだろう。
夫は頭のいい方だっただろう。ずる賢いというべきではないか。要領よく今まで世の中を渡ってきたに違いない。それを今までは誰もが他人ということで許してきたのだ。
だが、瑞枝もそれほど頭の巡りの悪い方ではない。才女とまではいかないが、人の性格を見抜くのは早い方だった。
熱しやすく冷めやすい性格でもある瑞枝は、夫になる人だと思ってからというもの、完全に自分を見失っていた時期があった。
――人を好きになるって、ここまで思い込むことなんだわ――
と、自分の世界に入り込んでしまっていた。
結婚してからもしばらくは、夢見心地であった。痘痕もえくぼと呼ばれるが、まさしく何があっても許される仲だと思っていた。
どちらが先に新婚から冷めたのだろう。瑞枝だったかも知れない。
まだ新婚気分の抜けない夫を見ていると、次第に冷めてくるのだったが、冷めてくる気持ちがどこから来るのか分からなかった。
夫にとって普段と変わらない言葉も、冷めかかっている瑞枝には、薄っぺらいものにしか聞こえない。
それまで瑞枝のお願いごとを聞いてくれる時は聞いてくれたのだが、聞いてくれない時も、優しくいなしてくれていたと思っていた。だが、冷めかけた瞬間から、一番聞いてくれない時の夫が今までの感覚と違っていることに気がついた。
――誠意が感じられないわ――
どこか他人事で、どうしてなのかと思っていたが、最初に感じたのが、釣った魚に餌をあげない感覚に似ているところだった。
まるで騙された感覚に陥ってしまった。物足りなさを通り越して情けなさまで至った気持ちはそこにあったのだ。
瑞枝にとって、すでに帰るところはなかった。結婚二年くらいしか経っていないのに、
「離婚します」
と言って、どこに帰るというのだ。
元々、親の反対を押し切っての結婚でもあった。夫を見た時の母親が露骨に嫌な顔をしていたのが印象的だったが、母親は、あまり言葉に出して発言しない。父親もそんな母親に気付いたのか、
「もう少し、考えたらどうだ」
と言われたが、如何せん惚れた弱み、親の意見をまともに聞くこともなかった。
親を見返してやりたい気分でもあった。
家ではあまり発言しない母親を見て育ったので、
――これが結婚生活なのかな――
と疑問を感じていた。
――いや、そんなはずはない。自分だったら、こんなことはない――
と言い聞かせながら見てきた両親に自分の生き方を見せ付けてやりたかったのだ。それが経った二年で挫折してしまうなんて……。瑞枝の気持ちは複雑だった。
子供がいないことで離婚への決意はそう苦痛でもなかった。お互いに冷めてしまっていたのは、話をしても平行線だと分かっていたからだ。
そういえば、結婚してから、そんなに会話をした記憶はない。話をしなくとも、お互いに分かり合えていたはずだという暗黙の了解があった。
どちらかが、自我を通せばきっと力関係はそのまま続いていくだろう。
夫に逆らえない妻。
それは両親を見て分かっていた。それだけに、自我の強さのない人を無意識に結婚相手に選んでいたのかも知れない。
夫婦間に会話のないことが致命的であることは分かっていた。テレビドラマなどを見ていても、会話のない家庭がどれほど冷え切っているか、見えていたからだ。
だが、所詮テレビドラマは他人事、冷静な目で見れるから、自分たちを顧みることもなかった。
性格の不一致を最初に言い出したのは夫だった。瑞枝はなるべく言いたいことを我慢していた。下手に騒ぎ立てて問題にしても、口では敵わないと思っていたからだ。
下手な言い訳をするくらいなら何も言わない方がいいというのが瑞枝の考え方だった。
言い訳も下手なものは分かっている人から見れば露骨に見える。感情を逆撫でするには十分であるが、まったく話をしないのも会話にならないので、テレビドラマの冷え切った家庭を絵に描いたようになってしまう。
実際、結婚生活の晩年は、冷え切った家庭だった。
夫の帰りが遅くなる。帰ってきても何も言わずにすぐに寝てしまうし、顔も見ようとしない。
――最後に抱かれたのはいつだっただろう――
思い返してみても、かなり前だったようにしか思えない。そのくせ、つい最近まで新婚夫婦だと思っていたのに、一体どうしたことだろう。
過去の記憶で、楽しかったことと、最近の冷え切った家庭で考えること。どちらがより以前のことなのか分からなくなってしまうほど感覚が麻痺してしまっている。
楽しかったことがつい最近のような気がして、冷え切った家庭がまるで昔に夢に見たことのようであった。
作品名:短編集55(過去作品) 作家名:森本晃次