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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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あの日の空に帰りたい

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 そのあとの記憶はなかった。その時に何を見たのか、自分がどうなったのかの記憶が完全に喪われていた。気がついた時、翠は叔父と共に汽車に乗っていた。どこを走っていたのかは分からないが、海が見えていた。
 母親の妹である妙子の家に引き取られ、その時に色々聞かされた。あの日、出撃準備のために山口県にいた叔父が、病院に収容されていた翠を見つけ、保護してくれたのだそうだ。発見された時はほとんど外傷もなく命にも別状はなかったが、なかなか意識が戻らず大層心配したということだった。他の家族も親類縁者も、広島にいた者で助かった者は誰一人いなかったらしい。母と小夜は、燃え尽きた自宅の瓦礫の下で遺体となって発見されたと聞かされた。
 意識を取り戻したとは言え、翠はあの日、あの時以来の記憶を完全に喪い、その上放心状態で何も反応しない生き人形のようだったと、叔父は語った。そして、翠が自分の目ではっきりとそれを捉えたのが、車窓から見える海だった。陽光に煌めく海。それが、あの日の後、初めて翠が見たものだった。
 名前も知らない町を幾つも過ぎた。神戸や大阪といった大きな街はことごとく焼き尽くされ、見渡す限りの瓦礫と燃え残ったビルの中に簡素な小屋があるだけだった。駅の乗り場には人が溢れ、すでに満員の列車に乗り込もうとする人々の怒号が飛び交っていた。翠はそれを、まるで自身とは切り離された、活動写真を見るような感覚で眺めていた。戦争は終わったと叔父には聞かされていた。だが見えるものは、混乱と無秩序、統制を失った人々の群れだった。車中の人は黙して語らず、誰もが見て見ぬ振りをしていた。そこには、情けや助け合いの精神の欠片も窺えなかった。
 長い橋を渡っている時、翠は広島に帰って来たような気持ちになり、思わず座席から身を乗り出した。そこにはまだ燃えていない街があった。これまでの全部が夢で、何かの用事で他の街に行っていて、今ようやく故郷に帰って来たのだと思った。だが、それは錯覚だった。京都に着いたのだった。
 戦争前に一度だけ、両親と共に来たことがある街。屋根の抜けていない大きな駅。それが京都だった。木造の駅舎を出て、市電で叔父の家のある西陣という所まで行った。車窓から見える景色に焼け跡などなく、普通の家々や商店が軒を連ねていた。ここでもまた、懐かしいような寂しいような思いに駆られ、翠は涙が零れた。叔父はそっと頭を撫でるだけで、何も言わなかった。
 ここが広島でないことは分かっていた。狭い車内で交わされる言葉も違う。少し似てはいるが、京都独特の響きが、ここが自分の街ではないことを嫌でも思い知らせた。
 家の軒先をかすめるように走る電車はやがて広い通りに出た。左手の広場の先に白壁が見えた。二条城だと、叔父は教えてくれた。確か、天守のないお城だったはずだと、翠は思い返す。同時に、あの立派な広島城の天守はどうなったのだろうと思った。
 西陣で電車を降り、叔父の家へと歩いた。長い間座りっぱなしだったせいで体のあちこちが痛んだが、歩いたのはそう長い距離でもなかった。
 叔父の家で、翠は涙と抱擁によって迎えられた。あの街で生き残った、たった一人の親族、亡き姉の娘である翠をこれでもかというほどに、妙子は強く抱き締めた。
 翠はただただ申し訳なくて、情けなくて泣いた。何度も何度も謝った。自分だけ、生きていてごめんなさいと繰り返した。
「あんたまで死んどったら、姉ちゃんもっと浮かばれへんかったやろに」
 妙子は翠に言った。
「ほいでも、こんなウチが生き残るやなんて、行き遅れのウチだけ生き残るやなんて、生き恥やないですか! ほやったら、小夜ちゃんやらが生きとったら良かったんです。ウチじゃのうて」
「そんなこと、あらへん。あんただけでも生き残ってくれたこと、姉ちゃんも喜んでくれてるはずえ」
「死んだ人が、喜ぶんですか!? 死んだら、何にも無うなってしまうんと違うんですか!!」
「もう、ええねんで」
「何がええんですか!!」
「もう、ええ。幾らでも泣きよし、怒りよし。何もかも、一人で抱え込まんでええんや」
 そう言って妙子も大粒の涙を零した。
「ごめんなさい、ウチ……」
「せやから、ええって言うとるやろ」
 翠と妙子はそのまま長く抱擁を交わした。妙子の身体には、もう忘れかけていた遠い日の母の温もりの名残が確かにあった。
「ウチ、生きててええんじゃろか」
 翠は、ぽつりと言った。
「ええんやで。生きてるゆうことは、そうゆうことなんやで」
 妙子の肩に顎を乗せながら、翠は「はい」とだけ返事した。
 翠が落ち着いてから、妙子はここでは広島にいたことは黙っているようにと言った。理由を訊ねても詳しくは話してもらえなかったが、とにかく広島のことは絶対に口にしないようにと厳しく念を押された。
 翠は、叔父の家で実の娘のように扱ってもらえた。親戚であっても酷い仕打ちを受けたと、疎開から戻って来た子どもの話を聞いたりしていると、翠は自分は恵まれ過ぎていると感じた。大叔母は冷たかったが、少なくとも叔父と妙子は我が子のように養ってくれた。体調があまり良くなかったため、きつい仕事は無理だったが、簡単な事務職を紹介してくれ、翠は職を得ることもできた。要らないと言われていたが、自分の食い扶持と感謝の気持ちを込めて毎月の給金の大半を叔母に渡した。残りは貸本やわずかばかりの化粧品、そして貯金に回した。
 戸籍などは全て叔父が回復してくれた。広島の役所は全て燃えてしまったため、結構大変だったと聞かされた。あれほど広島市民だったことを公言するなと言っておきながら、なぜ本籍や転居歴までありのままに申請したのか訝しんだが、それについてもやはり詳しくは聞かせてもらえなかった。ただ、いつか必要になるかも知れないと言われただけだった。
 おそらく、叔父も叔母も知っていたに違いない、その上で翠がこれ以上心を痛めないよう慮ってのことだったろうとは、後で知ったことだった。