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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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あの日の空に帰りたい

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 翠は本が好きだった。京都は焼けていなかったから、図書館の本は充実していた。ただ、そうそう頻繁には訪れることも出来なかったため、いつもは貸本屋や古書店を物色していた。
 数年後、仕事が休みのある日、翠が久しぶりに図書館を訪れた時のことだった。そこで、閲覧室の隅に積み上げてあった雑誌の表題に目が止まった。そこには、こう書かれてあった。
――広島――
 表紙には、破壊された建物の写真が掲載されていた。翠はそれをどこかで見たと思いつつ、記憶を手繰ってみた。鉄骨が剥き出しになった丸屋根、煤けたような廃墟、そして手前の水面。
 まさかと思った。表紙をめくると目次がある。その脇に小さく説明書きがしてあった。
 原爆ドーム(旧産業奨励館)――
 そんな……
 あの美しかった奨励館が、こんな姿になっていようとは思ってもみなかった。戦争前に父母と夜間照明を見に行った時の記憶が蘇る。頁を繰ると、さらに衝撃的な写真が目に飛び込んで来た。完全に崩壊したビル、遠くの比治山まで一面焼け野原の市街、傾いた橋の欄干、飴のようにひしゃげた鉄骨。だが、その次の頁をめくった瞬間、翠はその場に頽れてしまった。
 気がついたのは、叔父の家でだった。妙子が心配げに翠の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫?」
「ああ、はい。ウチ……」
「もう少し、横になっとき」
 身を起こそうとする翠を、妙子は制した。
「すみません」
 謝る翠を、妙子はじっと見下ろす。鋭くはないが、憐れむような視線に耐えかねて、翠は目を逸らせた。
「見たんやね」
 妙子が言った。
 そちらを見ないままに、翠は黙って頷いた。
「黙ってたウチらが悪いんや」
「ほないなこと、ありません」
「いつか、こうなるやろて分かってたのになあ」
「妙子さんも叔父さんも、何も悪うないです」
「翠さんもな」
 妙子は、翠の手に自分のそれを重ねた。
「ウチ、何も知らんかった方が良かったんじゃろうか」
「知ってしもうたもんは、しゃあない。ウチらもな、初めて広島の写真見たときは眼ぇむいたわ。おっちゃんなんか、ホンマにあそこを歩き回ってきたのに、ウチにもちゃんとゆうてくれへんのやで」
「ほんでも、ウチは何でこないなったんか知りたいんです」
 重ねた手を優しく叩かれる。
「焦らんでもええ」
「ウチは、あの日何を見たんか、何でこんななったんじゃろ」
「そんだけ怖い思いしたちゅうことなんや。無理して思い出さんでもええ」
「ウチは、広島におりました」
「せやな」
「ほやのに、ウチだけ生きとります」
「戻って来た兵隊さんも、みんなそう言わはるわ」
「ウチは兵隊さんと違います」
「おんなじやで」
「何でですか」
「修羅場を生き抜いてきたもんは、みんな兵隊や。一億皆兵ゆうとったやろ」
 そして妙子は京都にも空襲があったことを語った。叔父の家のすぐ近く、中立売通を挟んだ南側に幾つか爆弾が落とされたと。あと、噂では馬町も空襲を受けたと。馬町がどこなのか知らない翠に、この家の墓がある西大谷の近くだと教えてくれた。
「アメリカさんが、京都はお寺が仰山あるさかい空襲せんかったなんて嘘や。清水さんと西陣に爆弾落としたんやさかいな」
「金閣寺とかは大丈夫やったんでしょうか」
 翠の問いに、妙子は笑った。あんな田舎に落とさへんわ、と。あと、別の噂では御所の近くも被害を受けたらしいとのことだった。これはあくまでも噂で、混乱していたからデマかもしれないと妙子は言った。
 一見無傷に見える京都でさえ空襲があったということに、翠は驚きを隠せなかった。
「ちょっと間違うてたら、ウチらも死んどったんやで。そうならへんかったんは、あんたを引き取るためやったんやって思てる。ほんでな、あんたはウチの故郷の生き残りや」
 夕食後、妙子と共に銭湯から戻ってから、翠は少しだけ広島のことについて聞かせられた。あの日、新型爆弾と呼ばれた原子爆弾は、たった一発で十万人もの命を奪ったと。それは産業奨励館の真上で爆発し、市街全てを焼き尽くした。爆発の瞬間に強烈な光を発し、次いで爆発の勢いで激しい風が吹き荒れ、その後火災が発生した。人々は原爆が落とされた瞬間を形容して、ピカドンと呼んだ、と。
 それは、まさしくあの時に体験したそのままだと翠は思った。視界全てが黒と白の陰影に変った瞬間、そして、その後の衝撃。
 あまりにも端的なその響きに、翠は身震いした。
「あんたは、お姉ちゃんの形見なんやさかい。生きとるだけでええんや。前もゆうたやろ」
 妙子はさらに、こうも付け加えた。あの日、翠だけではなく多くの人が生き残ったのだと。だから生きていることに罪悪感は抱かなくてもいいと。
 その時は頷けても、そうそう割り切れるものではなかった。そんな翠に妙子は時おり縁談を持って来た。いつまでも一人でいるから塞ぎ込んでしまうのだと。翠はそのことごとくを断った。
 そんな折、叔父が病気になった。癌だった。知らぬ間に進行していて、すぐさま入院となった。叔父が生きている間に何とか縁談をまとめようと、妙子は執拗に説得したが、翠は決して首を縦には振らなかった。誰かいいひとがいるのかとの問いにも、曖昧に流すばかりだった。
 翠にも、職場で密かに想いを寄せている相手はいた。だが、はじめから諦めていた。京都へ来て、これだけよくしてもらっていながら、これ以上の境遇は自分には勿体なさ過ぎると思っていた。翠には、かつて互いに思い合っていた相手がいた。戦争が始まって間もなく南方へ行き、葉書だけは時々送られてきていた。翠は彼を待っていた。帰ったら、正式に結婚を申し込むと言ってくれていた。戦局が厳しくなるにつれ途切れがちになった便りも、二十年になってからは、ぱったりと途絶えていた。翠は、彼が生きていることを信じたかった。だから、今更他の人を好きになるのは申し訳ないとの思いもあった。
 体調の方も以前と比較して芳しくなくなってきていた。仕事の方は何とか続けられていたが、どうしようもない倦怠感に悩まされることも多かった。こんな体で、思いを打ち明けられようはずもなかった。