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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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あの日の空に帰りたい

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 あの日の朝、空襲警報も解除され、街は遅れた時間を取り戻そうとするかのように、いつもより慌ただしい雰囲気だった。
 普段ならもっと早く家を出る翠に、母が声をかけてくる。
「いつまた警報があるか分からんで、気ぃつけてな」
「もう慣れちょるて。夜までは来んじゃろし」
 玄関口で草履を履きながら、翠は返す。
「ほんまに、昼の間に来てくれてもええのになぁ」
「ほな、行ってきます」
 ぼやいている母親に、翠は軽く頭を下げた。
「今日も遅うなるん?」
「はい。今日はそんなに忙しゅうならんじゃろて、稲本さんも言うてはりました」
「お姉ちゃん」
 まだ小さい小夜が、母の脇で日の丸の小旗を振る。隣の家の子で、翠によく懐いていた。
「はいはい、小夜ちゃん。でも、お姉ちゃんは女じゃけん、兵隊さんには行かんよ」
 それには構わず、小夜は敬礼で翠を送り出した。
 豪の中も暑かったが、まだ朝だと言うのに外の方が暑いのではないかと思える陽気。乾き切った路面に打ち水をする人もちらほらいる昔ながらの家並みの中を、翠は歩いてゆく。青空を映す水たまりと陽射しをよけて、商店の軒先をかすめるように。視線の先に電車が横切るのが見えた。いつもの光景。他の町が次々と空襲を受けているらしい中、この街だけはいつも変わらないままなのに、翠は申し訳なさと共に安心感も覚えた。
 電車通りを横切り、住友銀行の脇へ。さらにその先の脇道に入る。いつもと違う場所。来たことのない場所だった。昨日の帰りがけに事務所から使いを頼まれていた。ただ書類を届けるだけだったので、昨日のうちに帰りに寄ってもよかったのだが、上司の稲本から今朝一番でいいと言われていた。
 ゆっくりできると思うちょったのに――
 翠はまた、ひとりごちる。昨夜と朝方の空襲警報のせいで、今朝はいつもよりも早く目覚めさせられた。おかげで、まだ眠い。時間に指定があるわけでもないために急ぐ必要もない。だからこうしてのんびり朝の街を眺めながら歩いているのだった。
 まあええか。帰りもゆっくりでええて言うてはったし――
 書類の届け先のあるビルの前に立つ。入口前を掃いていた人に声をかけ、翠は中へと入った。
 案内された通りに三階まで上がり、目的の事務所の扉を探す。ほどなく見つかったその扉を控えめに叩くと、内側から「どうぞ」という女性の声が聞こえた。
 部屋の中には翠よりずっと若い、まだ女の子と言ってもいいくらいの女性が机の上を拭いていた。
 翠は持って来た風呂敷包みを見せて、訪問の目的を告げた。
「室長、お客さまですよ。何やらお届けにいらしたそうです」
 女性が奥の方へ声をかけると、衝立の向こうから男性が顔を出した。
「ああ、暑い中、ご苦労様。どうぞ、そこへ掛けて」
 言われるままに翠が机の前にあった椅子に腰を下ろすと、室長と呼ばれた男性が、まだ掃除をしている女性に合図した。女性は一旦部屋を出て行き、湯呑茶碗を二つ載せた盆を持って戻って来た。
「さぞ喉も渇いとるでしょう」
「ありがとうございます」
 翠は手前にある湯呑茶碗を手に取り、水を半分ほど飲んだ。
「今朝は本当に参りましたなあ。あげな時間に警報鳴らされちゃ、敵わんです」
「そうですね」
 室長の男性に合わせて、翠も残りの水をゆっくりと飲んだ。
「今日はいつもより暑うなりそうで」
 外はもう真昼のような陽射しで、家々の屋根の照り返しも眩しい。
「では、私はこれで失礼致します」
 翠は立ち上がる。
「ほない急がんでも。たまにはゆっくりせんと、このご時世やっていけませんよ」
「はい、有難うございます。でも、あまり暑くなる前に戻りたいので」
「それもそうですな。じゃあ」
 室長は事務机の上の紙きれに走り書きをして、翠に渡した。
「受け取りの証明です」
「はい」
 翠は頭を下げた。
「じゃあ、お気をつけて」
 戸口を出る際、翠はもう一度お辞儀をした。半分ほど扉を閉めた時、何かが部屋の中で光った。
 光ったというより、強烈な光線を当てられたかのようだった。
「今のは?」
 閉めかけていた扉を開けて、翠は言った。
「さあ、何か――」
 室長が言いかけた時、翠は背景の窓の向こうから何かの塊が猛烈な勢いで迫ってくるのを見た。言葉を発する暇もなかった。
 慌てて扉を閉める。その瞬間、もの凄い衝撃と圧迫感と共に扉が跳ねるように逆に開く。翠は跳ね返った扉ごと激しく壁に打ち付けられ、そうかと思う間もなく建物全体が揺さぶられて、壁が軋んだ。外れてしまった扉の向こうで、何かが激しく打ち付ける音がする。とにかく可能な限り身を縮めて、訓練で習ったように耳を塞ぎ、顔を覆いながら歯を食いしばった。
 ややあって薄目を開ける。次いで両耳に充てていた腕を外す。
 朝だったはずなのに、薄暗い。それに、不気味なほどに何の物音もしなかった。
 身を起こそうとする。だが、左足が引っかかって動かせない。さっきの衝撃でたわんだ壁の一部が崩れ、足の上に落ちて来ていた。幸いなことに、崩れ落ちた煉瓦を取り除くのは難しいことではなかった。ただ、あと少し後方だったら、もっと大きな壁材に完全に押しつぶされていたかも知れない。
 身体に圧しかかった扉を押し上げ、翠は起き上がる。さすがに左足が痛んだ。暗闇とまではいかないまでも、廊下は暗かった。窓から入り込む明かりは朝のそれではなく、夕立前のような不気味な灰褐色をしている。床には様々な物が散乱し、壁とは反対側にある窓のガラスは全て割れて、幾つかの窓枠は外側に歪んでいた。
 さっきまでいたはずの部屋を覗いてみる。あまりにも雑多なものが積み重なり、無茶苦茶に破壊されていた。中にいたはずの二人を呼んでみたが、どこからも返事はなかった。机や書棚などが壁の方に吹き寄せられ、その表面には無数のガラス片が突き刺さっていた。どこから来たのか分からない屋根瓦や木材と共に、そこかしこに書類が散らばっている。
 何が起こったのかは分からない。だが、この状況で室長たちが生きているとは思えなかった。運よく一命を取り留めていたとしても、一人の力で助け出すのは不可能だった。
 人を呼ばなければ。
 翠は廊下へ出、階段の方へ向かった。吹き飛ばされた扉、漆喰の剥がれ落ちた壁、割れた窓。足元に注意し、痛めた足を気遣いながら慎重に進んだ。
 どの部屋も、同じような惨状だった。その時になって、初めて翠は窓の外に目をやった。
 そこには、信じられない光景が広がっていた。乾いた泥にまみれたような、一面茶色の街、煙があちこちで上がっている。空気は埃っぽいというよりも砂を含んだような嫌な味がした。砂色の街はどんどん暗さを増し、闇に包まれてゆく。
「誰か! 誰かいませんか!」
 恐ろしくなって、翠は声を上げた。
「誰か!」
 足をかばいつつ、階段を一段ずつ降りる。階段にも板やら何やらが落ちて来ていて、それらにいちいち注意を払いながら足を運ばねばならなかった。
 二階の廊下に倒れている人を見つけて、翠は声をかけた。だが自分より若いその女性は先ほどの衝撃のせいか、頭部から血を流して息絶えていた。