あの日の空に帰りたい
1
暗い。真っ暗じゃないけど、暗い。窓からは明かりというよりも闇が流れ込んできているように思われた。
足元は歪いびつな石を敷き詰めたように歩き辛く、踏み締める度に耳障りな音を立てる。
暗い。
壁に這わせた手が、冷たいのか熱いのか分からない、ぬめりともつかない感触に冒されてゆく。
必死で声を出そうとする。
助けて――
だが、その声は虚無の彼方へと吸い込まれて、自分の耳にさえ届かなかった。
誰か――
助けて――!
翠は、はっと目を覚ました。
目に飛び込んだのは、白だった。瞼を閉じ、今度はゆっくりと目を開ける。
白い天井、白い壁。窓には白いカーテンが掛かっている。
病室だった。
また、あの夢を見たのだと、翠は思った。
身を起こし、ベッド脇の小卓から帳面を取る。挟んでおいた鉛筆が頁ページの間から滑り落ち、壊れた木琴のような音を立てた。
怠い身体を横に滑らせても、下には届かない。翠は注意深く片足を降ろし、冷たい床に素足をついた。痛むでもないが、自分のものではないような、ふわついた感覚。翠はそろりと身を屈めて、床に転がった鉛筆を拾い上げた。
外は暖かそうなのに、病室の床は氷のように冷たい。室内履きをつっかけて、窓際に寄る。初夏の青空が見えた。眼下には新緑を過ぎて徐々に色濃さを増す中庭の樹々。まだ元気のある人が散歩しているのや白衣の職員の姿も見える。
窓を開けると、穏やかな風が吹き込んで、カーテンを躍らせた。
扉が開く音がして振り向くと、そこには叔母の妙子と、その孫娘の貴理恵が立っていた。
そうか、今日は葵祭の日だったのだと、翠は思い出した。
「翠おばちゃん」
まだ十歳の貴理恵が、翠に駆け寄ってくる。
「翠さん。今日は少しは元気そうやね」
妙子が言う。
「はい、おかげさまで」
「浮かん顔して、何かあったん?」
「いえ、特には」
「まあ、こっちぃおいない」
妙子が手招きする。
「今日な、カステラ持ってきてん」
満面の笑みで、貴理恵が言う。
「そうなん。ありがとね。おばちゃん、カステラ大好きなんよ」
貴理恵に手を引かれて、翠は寝台に腰を下ろした。
「ほれとな、これ」
妙子が風呂敷包みを寝台の上に置く。
「これは?」
「開けてみなはれ」
「はあ」
紫と白の化繊の風呂敷を広げると、そこには何冊かの本があった。
「そろそろ読み終わらはる頃やと思うてな」
「有難うございます」
言いながら、その本の題名を見てゆく。その中に、いつだったか読みたいと言っていたものが混じっていた。
「ほんに、有難うございます」
翠は、もう一度深々と頭を下げた。
「かまへん、かまへん。うちら、こんくらいのことしか出来へんのやさかい」
妙子が言う間も、翠は頭を上げなかった。
「ほら、頭上げて」
妙子が翠の肩を叩く。「カステラお上がり」
「はい」
翠は差し出された皿を受け取った。
「そんな気ぃ遣つこぉてばっかりやと、余計にしんどいやろ? ささ、せっかく持って来たんやさかい、そんな顔せんとお上がり」
勧められて、翠は添えられたフォークでカステラを少し切って口にした。
「どう?」
貴理恵が翠の顔を覗き込む。「美味しい?」
「うん、すごく美味しい……」
微笑んでみせようとしたが、翠は涙が溢れてくるのを覚えた。
サチ、ヨシヱ、小夜さよ。みんな、甘いものが大好きだった。もちろん、翠も。サチとヨシヱは同じ職場の事務員だった。そして、小夜は――
「翠さん。また何か思い出したんやな」
「おばちゃん、どうしたん?」
その言葉に、翠は首を振った。微笑もうとしたが、その表情は悲痛に歪むだけだった。
作品名:あの日の空に帰りたい 作家名:泉絵師 遙夏