あの日の空に帰りたい
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そして今、翠はカステラの皿を手にしている。涙を流しながら。
「ウチ、たぶん幸せなんやと思います」
翠は言った。
「おばちゃん、何で泣いてるん?」
貴理恵が翠の顔を覗き込む。
「おばちゃんな、嬉しいねんで」
「そうなん? 嬉しいのに、泣くのん?」
「うん。大人はな、ちょっとおかしいんよ」
その言葉に貴理恵は「ふうん」と、訳が分からないというような返事をした。
「妙子さん。本当にありがとうございます」
翠は皿を置き、手をついて頭を深々と下げる。
「何やのん、急に改まって」
「ウチ、ホンマにようしてもろたと思てます」
「翠さん……」
「ウチ、もう長うないと思ぅちょります」
これは正直な感想だった。回診の医師の表情からも、それは窺えた。
「そないなこと、言わんとき」
「いいえ、言わせてもらいます、何べんでも。いつ死んでも悔いのないようにしたいんです」
「そないに具合悪いんか」
「妙子さんも、聞いてはるんと違いますか」
「あんまり良ぉないとは言うたはったけど」
「おっちゃんの時、先生はどない言うてはりました?」
その言葉に、妙子は黙り込んだ。
「もう、隠さんでもええです」
翠は俯いて言った。
「隠してるつもりやあらへん」
「妙子さんにも、辛い思いをさせてしもうて」
「辛いなんて思たこと、あらへんえ。辛いのはあんたの方なんやさかい」
「もう、充分です。ウチ……」
翠は拳を握り締める。「お母ちゃんとこ、行きたい」
「翠さん……」
「すみません。一人にしてもらえますやろか」
翠は顔を背けて言った。
妙子はしばらく傍に立っていたが、いらん気ぃ起こしたらあかんでと言い置いて病室を出て行った。
医師に治療の停止と死を望んで二年。医師は死ぬことを許してくれなかった。それは、医者として出来ないことなのだと諭された。万一それを許したら、医者は殺人罪に問われると。
原爆の被害を被った者を十年以上も放置しておいて、それで多くの人を見殺しにしておいて、今度はどんなに辛くとも死ぬことも認めない。オリンピックであれだけ騒いでおいて、今度は万博だと煽っている国、そしてそれに熱狂する人たち。
この国は変わらない。
自分の、自分たちの苦しみは何だったのだろうと、悔し涙が零れる。
帰りたい。
あの街に。
もしあの日に戻れるなら、絶対に母の元から離れない。
みんな言っていたではないか。ゆっくりでいいと。
その数か月後、翠は誰に看取られることもなく、ひっそりと息を引き取った。
翠の死を最初に見つけたのは、朝食を運んで来た給仕係だった。
その表情は穏やかで、微かな笑みさえ浮かべているようだった。
ただ一筋、頬を涙が伝ったあとだけが乾きかけていた。
昭和42年初秋、まだ暑さの残る良く晴れた日だった。
作品名:あの日の空に帰りたい 作家名:泉絵師 遙夏