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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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あの日の空に帰りたい

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 昭和37年冬。比較的調子の良い朝のことだった。外は昨夜からの雪で真っ白になっていた。翠は雪が好きだった。純白で穢れなく、心の奥まで染み渡るように冷たい。舞い降りる雪の欠片は手のひらで淡く融けて消えてしまう。儚い命の結晶。それが降り積もって汚れたものを覆い隠してくれる。凛とした静けさと清冽な空気が、体内に溜まった悪いものを清めてくれるような気が、翠はするのだった。
 中立売通を走る市電は前年に廃止になり、バスでの通院になってしまっていた。バスは電車と比べて乗降口が高く乗り心地もよくなかったため、翠はあまり好きではなかった。千本通か|今出川通まで出ると電車はあったが、そこまで歩くのは辛かった。
 四条通までバスに乗り、そこから電車に乗り継いで病院へ向かわなければならなかった。今出川通からだと直通で行けたのだが、よほど調子のよいときでもない限り、そちらの経路はとらなかった。
 朝方の雪はほとんど融けていたが、路面はまだ濡れていた。四条堀川でバスを降りる際、翠は急に足に痛みを覚えて膝をついた。その時は捻ってしまったのかと思ったが、痛みは引くどころか徐々に強くなり、その上赤く腫れて来た。電車に乗るのは無理だと判断した妙子がタクシーを呼び止め、病院までそれで向かった。病院に着くと今度は係の人に言って車椅子まで借りてきて、翠をそれに座らせた。大げさだと強がって見せる翠に、妙子は厳しい口調で座るようにと言った。
 普通の診察は後回しになり、先に足の具合を診てもらうことになった。X線検査の結果、骨にひびが入っているとのことだった。
 それこそ大げさだと思ったが、様々な理由から入院となってしまった。家にいても足がこのような状態では却って妙子の負担になると考え、翠は不承不承ながらも入院を受け容れることにした。
 いつもより多くの検査が行われた。以前に聞いた原爆症が悪化しているのではないかと、翠は不安になった。医師は足の具合が良くなれば退院できると言ったが、ただの気休めにしか聞こえなかった。
 実際、翠はいつまでも退院できなかった。足の腫れは薬で幾らか抑えられても痛みまでは引かなかった。松場杖を希望しても許されなかった。他の骨に負担がかからないようにとの理由だった。それだけ骨が弱くなっているということだった。
 それでも翠は自分の足で立ちたかった。点滴の針が刺さっていない時は寝台を抜け出し、両手を壁に這わせながら窓辺まで歩いた。そんな時は、あの日のことが思い出された。痛む足は、あの時に傷ついた左足だった。しかも、怪我をしたのと同じ場所だった。原爆の毒がそこから入ったせいで、こうなってしまったのだと、翠は思った。
 退屈しないようにと妙子が置いてくれたラジオはあまり聴かなかった。東京オリンピックに向けての標語が繰り返され、国民の熱狂を煽るのを聞きたくはなかった。結局、あの当時と同じだと翠は嫌悪感を抱いた。全国民一丸となって成功させましょう。それは一億総国民最後の一兵まで戦い抜けと言っているのと同じに聞こえた。
 そうやって寝台を抜け出している姿を見ても、看護婦や医師に咎められることはなかった。寝た姿勢でなければならない場合を除いて、椅子に掛けたままで処置を済ませてくれた。だから調子がよほど優れないのでもない限り、翠は窓辺の椅子に掛けて本を読んでいた。眼下の中庭に佇む人たちを時おり眺めながら。
 治療が功を奏したのか、数か月後には介添え付きでの外出が許されるまでには回復した。帰宅は無理だったが、鴨川の辺りまで。川端通は車の往来も多く、信号があっても一人で渡るのは怖かった。だから、誰かがついていてくれるのはとても有難かった。
 手を貸してもらいながら土手を降り、草地に腰を下ろして鴨川を眺めるのは好きだった。浅い川だが、街中を流れる水のある風景には安らぎを覚えた。時には橋を渡り、対岸にある喫茶店でコーヒーを飲んだりもした。そこからは川の向こうに今は自分の住処となってしまった病院が見えた。その更に先には大文字山と比叡山が聳えていた。
 そんな日々が続いた。病院食でも頂けるだけ有難かったが、朝夕以外は体調が許せば階下の食堂で食べることが多かった。とは言えハイカラなものはあまり頼まなかったが。
 まだ、自分で動けるだけいい方だと、翠は思った。叔父の入院の時は、そうはいかなかった。
 医師は決して回復に希望を持たせるようなことは言わなかった。ただ、これ以上悪化しないよう最大限の努力をするとしか。見込みのない病。呪われた身。消灯時間が過ぎても、常夜灯だけは消せなかった。
 それから三年。
 病室の鏡の前に立つ。髪に白いものが目立つようになった自分の姿に、あの時の母親と同じ年齢になってしまったと、翠は寂しく思った。あの時でさえ既に少女ではなかったし生娘でもなかったが、自身が老いてゆく姿を見るのは、やはりやるせなかった。
 もう、いいのではないのか。どうせ治らない病気なら、無駄に苦しみ続ける必要はないのではないか。
 鏡の中の化粧気のない、蒼ざめた顔に向かい、お前は何をやって来たのかと問う。
 答えはない。そんなものなど、最初からなかったのだ。
 その日、翠は医師に、死を望み出た。