カエル
頭の上には満天の星。
田んぼからは狂ったようなカエルの鳴き声。
私はタチの悪いカサブタを引き剥がすように、首もとのネクタイを緩めた。
「まいったな、ちくしょう。熱帯夜だな」
汗だくの私はヨロヨロと歩きながら鞄の中に入っているペットボトルの水を取り出す。
「ダメだ…気持ち悪い…飲み過ぎだ」
喉をならしながら、ぬるい水を一気に飲み込む。
「うー。あー、やばいな」
とにかく早く帰らないと…
その一心で帰路を歩く私だったが…
道路の脇に落ちていたワラの混じった牛糞を勢いよく踏んだ私は、足をもつらせて電柱に絡み付くように抱きつき、そしてゲロを吐いた。
さっきまでゲコゲコ鳴いていたカエルの声が、コメディ番組でわざとらしく流れる笑い声に聞こえた。
「ちくしょう、なんだよこれ。汚えし、くせーし」
革靴の靴底に張り付いた牛糞を、電柱に擦り付ける。
それからほふく前進をするように暫く地面をはって進み、近くにあったバス停の長椅子に腰をおろした。
月明かりに照らされる錆び付いた時刻表。
1時限に1本来るバスは、ド田舎を示す看板のようだ。
「あー、だめだ、少し休もう」
私はバス停の長椅子に横たわり、しばらく体調が回復をすることを待つことにした。
腕時計は午前2時をまわっている。
目の前には、農道と田んぼと夜空。
相変わらずカエルの大群はやかましい。
私はしばらくボーッと横になった後、あることに気がついた。
そういえば…
どうして私はここに居るのだろうか?
果たしてここは一体どこなのであろうか?
記憶がない。
どこに向かって歩いていたのだろう。
どこかで酒を飲んだような気がするが…
まるで記憶がない。
しばらく目を瞑って横になっていると…
私はすぐに睡魔に襲われ、意識を失った。
「お客さーん、お客さーん」
私の肩を揺らす手で目を覚ました。
目の前にはバスの運転手らしき制服の男が立っていた。
こんなに暑いのにも関わらずネクタイを首もとまでピシッと締めた、若く、男前の運転手さんであった。
「大丈夫ですか?」
「あー、すみません、運転手さん…私、バス停の椅子で寝てしまっていまして…」
「あ、いえいえ。無事なら結構なんですが、運転をしていたらあなたを見かけまして…次のバスが来るまで4時間以上ありますから、一応お声がけをと思いまして…」
辺りは先ほどと変わらず真っ暗で、腕時計を見ても先ほどから30分くらいしか経っていない。
「お客さん、乗りますか?もうそろそろ出ないと、時刻表通りにバス停を回れませんでして…」
「時刻表って言ったってこんな時間に…」
私は喉元まで出た言葉を引っ込めた。
いずれにせよ、この状況を打開してくれるにはこの運転手の力が必要に思えたからだ…
「乗ります」
私は起き上がり、鞄を手にとった。
バスの車内はレトロなつくりで、今では考えられない灰皿のついた席だった。
私は喫煙者ではないが、こういう緩い規制の時代が懐かしく思えた。
空調が効いていないバスだったので、全ての座席についた窓は1/3程解放されており、田んぼから吹き込む風が私のシャツを揺らしていた。
私は鞄の中から財布を取りだし、ある程度お金か入っていることを確認し、少し安堵した。
しかしながら財布の中にはお金以外何も物が入っていなかった。
私の記憶を呼び戻す情報は何もない。
私はいったいどこから来て、どこへ向かうだろうか?
ただしばらく窓の外を眺めていると、不思議な感情が心の奥底ではジンワリ広がるようだった。
運転手にどこに向かっているバスなのかを話しかけてみてもよかったが…
今はただ風の中で流れ行く景色に浸っていたかった。
きしむエンジン音が正しいBGMのようで、心地よいバスの揺れが体をほぐす。
連続する月夜に照らされた田園風景。
瞼を閉じると…
記憶はないのだが…
どこか脳裏に懐かしく甦る景色の断面。
それが今、ここに目の前に広がっている気がする。
ただただこの風に浸っていたい…
全部忘れたままでいいから。
少しの間でいいから…
「お客さーん、お客さーん」
肩を揺らされた私は目を覚ました。
「はっ、あ、え?」
「お客さーん、カウンターで眠られてしまいますと、他のお客様にご迷惑なので…」
目を覚ました場所は、職場近くのバーだった。
そして私の肩を揺らすマスターの顔。
先ほど出会った運転手さんと同じ顔だった。
「あ、すみません…私、寝てましたか」
「お客さん、ご利用頂きましてありがとうございます。ただ今日はひどくお疲れになられているようなので、もうお引き取り下さいませ」
マスターは優しく私にそう言った。
それから私はマスターにお詫びをし、勘定済ませた。
私は店を出るといつもの帰路をフラフラ歩くことにした。
外は都会のネオンが渦巻く熱帯夜。
東京の電線だらけの空は、吐く息も空に到達する前に全てを絡みとられてしまうようだ…
「あー、俺、寝ていたのか…」
疲れたスーツ姿に鞄に革靴。
それはいつも日常生活だった。
「あー、ちくしょう…」
私は現代生活に抵抗するすべもなく…
ただ自宅を急ぐ、薄汚いサラリーマンの1人なのだ。
それにしてもさっきの夢は妙にリアルだった…
瞼を閉じ、あのバスの風をもう1度想像してみる。
あの田園風景を吹き抜けて、私のシャツを揺らす風を。
田んぼからは狂ったようなカエルの鳴き声がするあの景色を。
想像してみる。
瞼を閉じて、フラフラ歩くと。
まだあの田園風景を感じられるようで…
その時…
突然ズリッと革靴の底が滑った。
まるでバナナの皮を踏んだような感触が足に伝わった。
「わっ」
私は惨めな短い声を発し、棒のように後ろへスッ転んだ。
後頭部から背中を派手に打ち付けた私は、歩道の上で悶絶していた。
我ながら、なんて格好の悪い、無様な姿だろう。
まるで裏返しにされたカエルのようにジタバタと宙を掴むように、悶えた。
するとまた、あの声が聞こえた気がした。
そう。
コメディ番組でわざとらしく笑っているような…
そんなカエルの声が聞こえた気がする。
しばらく仰向けになっていると、痛みのピークを越え、少し考えられるようになった。
一体何を踏んだのだろうか?
私は革靴を手に取り、靴底を見てみてみると…
ワラの混じった牛糞が靴底にくっついていた。
「なんだよこれ…」
私は仰向けに倒れたまま電線だらけの東京の空に舌打ちをし、再び瞳を閉じた。
「お客さーん、お客さーん。終点です。お客さーん」
目を覚ますとバスの運転手が私の肩をさすっていた。
「すみませんバスの中で眠られてしまいますと、他のお客様にご迷惑おかけします」
バーのマスターと同じ顔。
それからバーで聞いたような話。
バーで聞いたような話…
バーで聞いたような…
「思い出した!」
私の記憶は一直線に全て繋がった。
記憶を取り戻したのだ。
「すみませんお客様、早くして頂かないと、この後の運転業務に支障がございまして…」
安堵した私は運転手にお詫びをして、運賃を支払い、バスを降りた。
まだ外は暗く、月明かりしかなかったけれども記憶を取り戻した私は大きな問題を乗り越えた安堵感に浸っていた。
バスのテールライトが視界が見えなくなると、辺りは再び闇に包まれた。
田んぼからは狂ったようなカエルの鳴き声。
私はタチの悪いカサブタを引き剥がすように、首もとのネクタイを緩めた。
「まいったな、ちくしょう。熱帯夜だな」
汗だくの私はヨロヨロと歩きながら鞄の中に入っているペットボトルの水を取り出す。
「ダメだ…気持ち悪い…飲み過ぎだ」
喉をならしながら、ぬるい水を一気に飲み込む。
「うー。あー、やばいな」
とにかく早く帰らないと…
その一心で帰路を歩く私だったが…
道路の脇に落ちていたワラの混じった牛糞を勢いよく踏んだ私は、足をもつらせて電柱に絡み付くように抱きつき、そしてゲロを吐いた。
さっきまでゲコゲコ鳴いていたカエルの声が、コメディ番組でわざとらしく流れる笑い声に聞こえた。
「ちくしょう、なんだよこれ。汚えし、くせーし」
革靴の靴底に張り付いた牛糞を、電柱に擦り付ける。
それからほふく前進をするように暫く地面をはって進み、近くにあったバス停の長椅子に腰をおろした。
月明かりに照らされる錆び付いた時刻表。
1時限に1本来るバスは、ド田舎を示す看板のようだ。
「あー、だめだ、少し休もう」
私はバス停の長椅子に横たわり、しばらく体調が回復をすることを待つことにした。
腕時計は午前2時をまわっている。
目の前には、農道と田んぼと夜空。
相変わらずカエルの大群はやかましい。
私はしばらくボーッと横になった後、あることに気がついた。
そういえば…
どうして私はここに居るのだろうか?
果たしてここは一体どこなのであろうか?
記憶がない。
どこに向かって歩いていたのだろう。
どこかで酒を飲んだような気がするが…
まるで記憶がない。
しばらく目を瞑って横になっていると…
私はすぐに睡魔に襲われ、意識を失った。
「お客さーん、お客さーん」
私の肩を揺らす手で目を覚ました。
目の前にはバスの運転手らしき制服の男が立っていた。
こんなに暑いのにも関わらずネクタイを首もとまでピシッと締めた、若く、男前の運転手さんであった。
「大丈夫ですか?」
「あー、すみません、運転手さん…私、バス停の椅子で寝てしまっていまして…」
「あ、いえいえ。無事なら結構なんですが、運転をしていたらあなたを見かけまして…次のバスが来るまで4時間以上ありますから、一応お声がけをと思いまして…」
辺りは先ほどと変わらず真っ暗で、腕時計を見ても先ほどから30分くらいしか経っていない。
「お客さん、乗りますか?もうそろそろ出ないと、時刻表通りにバス停を回れませんでして…」
「時刻表って言ったってこんな時間に…」
私は喉元まで出た言葉を引っ込めた。
いずれにせよ、この状況を打開してくれるにはこの運転手の力が必要に思えたからだ…
「乗ります」
私は起き上がり、鞄を手にとった。
バスの車内はレトロなつくりで、今では考えられない灰皿のついた席だった。
私は喫煙者ではないが、こういう緩い規制の時代が懐かしく思えた。
空調が効いていないバスだったので、全ての座席についた窓は1/3程解放されており、田んぼから吹き込む風が私のシャツを揺らしていた。
私は鞄の中から財布を取りだし、ある程度お金か入っていることを確認し、少し安堵した。
しかしながら財布の中にはお金以外何も物が入っていなかった。
私の記憶を呼び戻す情報は何もない。
私はいったいどこから来て、どこへ向かうだろうか?
ただしばらく窓の外を眺めていると、不思議な感情が心の奥底ではジンワリ広がるようだった。
運転手にどこに向かっているバスなのかを話しかけてみてもよかったが…
今はただ風の中で流れ行く景色に浸っていたかった。
きしむエンジン音が正しいBGMのようで、心地よいバスの揺れが体をほぐす。
連続する月夜に照らされた田園風景。
瞼を閉じると…
記憶はないのだが…
どこか脳裏に懐かしく甦る景色の断面。
それが今、ここに目の前に広がっている気がする。
ただただこの風に浸っていたい…
全部忘れたままでいいから。
少しの間でいいから…
「お客さーん、お客さーん」
肩を揺らされた私は目を覚ました。
「はっ、あ、え?」
「お客さーん、カウンターで眠られてしまいますと、他のお客様にご迷惑なので…」
目を覚ました場所は、職場近くのバーだった。
そして私の肩を揺らすマスターの顔。
先ほど出会った運転手さんと同じ顔だった。
「あ、すみません…私、寝てましたか」
「お客さん、ご利用頂きましてありがとうございます。ただ今日はひどくお疲れになられているようなので、もうお引き取り下さいませ」
マスターは優しく私にそう言った。
それから私はマスターにお詫びをし、勘定済ませた。
私は店を出るといつもの帰路をフラフラ歩くことにした。
外は都会のネオンが渦巻く熱帯夜。
東京の電線だらけの空は、吐く息も空に到達する前に全てを絡みとられてしまうようだ…
「あー、俺、寝ていたのか…」
疲れたスーツ姿に鞄に革靴。
それはいつも日常生活だった。
「あー、ちくしょう…」
私は現代生活に抵抗するすべもなく…
ただ自宅を急ぐ、薄汚いサラリーマンの1人なのだ。
それにしてもさっきの夢は妙にリアルだった…
瞼を閉じ、あのバスの風をもう1度想像してみる。
あの田園風景を吹き抜けて、私のシャツを揺らす風を。
田んぼからは狂ったようなカエルの鳴き声がするあの景色を。
想像してみる。
瞼を閉じて、フラフラ歩くと。
まだあの田園風景を感じられるようで…
その時…
突然ズリッと革靴の底が滑った。
まるでバナナの皮を踏んだような感触が足に伝わった。
「わっ」
私は惨めな短い声を発し、棒のように後ろへスッ転んだ。
後頭部から背中を派手に打ち付けた私は、歩道の上で悶絶していた。
我ながら、なんて格好の悪い、無様な姿だろう。
まるで裏返しにされたカエルのようにジタバタと宙を掴むように、悶えた。
するとまた、あの声が聞こえた気がした。
そう。
コメディ番組でわざとらしく笑っているような…
そんなカエルの声が聞こえた気がする。
しばらく仰向けになっていると、痛みのピークを越え、少し考えられるようになった。
一体何を踏んだのだろうか?
私は革靴を手に取り、靴底を見てみてみると…
ワラの混じった牛糞が靴底にくっついていた。
「なんだよこれ…」
私は仰向けに倒れたまま電線だらけの東京の空に舌打ちをし、再び瞳を閉じた。
「お客さーん、お客さーん。終点です。お客さーん」
目を覚ますとバスの運転手が私の肩をさすっていた。
「すみませんバスの中で眠られてしまいますと、他のお客様にご迷惑おかけします」
バーのマスターと同じ顔。
それからバーで聞いたような話。
バーで聞いたような話…
バーで聞いたような…
「思い出した!」
私の記憶は一直線に全て繋がった。
記憶を取り戻したのだ。
「すみませんお客様、早くして頂かないと、この後の運転業務に支障がございまして…」
安堵した私は運転手にお詫びをして、運賃を支払い、バスを降りた。
まだ外は暗く、月明かりしかなかったけれども記憶を取り戻した私は大きな問題を乗り越えた安堵感に浸っていた。
バスのテールライトが視界が見えなくなると、辺りは再び闇に包まれた。