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洋舞奇譚~204号室の女~

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泰子が引き継いでいた医長という職位は、前任者が移植学会の大物だった職で、実は強硬的な治療がトラブルになって退職をしたのだった。その強硬派の手下が多数だったから、治療方針はまさに硬直していた。泰子は、はっきりと覚醒していた。ここは美学に合わない、と。母上のことばは引き金になった。大学を離れることにしたのだ。だが、父は看取ろうと思っていた。それまでは少しでも全人的医療とやらをなんとか浸透させようと頑張ってみるつもりだった。外来化学療法室と、緩和ケアチームの運営に力を注いだ。学生の講義では、リンパ系腫瘍の担当をしていた。冒頭で、腫瘍は主役にあらず、病気も主役にあらず。患者が主役であると、常に苦痛を思え、幸せを願え、と、しつこいよう話をした。試験には必ず、緩和ケアについての設問を出した。末期患者のための医療、と書く学生はすべて不合格にして、補講をした。生きているものすべて、家族を含めて、が必要とするもの、それが緩和ケアであると。

午後のカンファランス中の大きな大きな揺れ、よぎったのは阪神淡路の記憶。倒壊した高速、たどり着けない、燃える街。やっと現地入りしたのに、見つけられたのは焼死体ばかり。
とっさに距離を計算した。国内なら、500Km以上は離れているだろう、どっちだ?海なら津波が来る。
会議は中断で、災害対策会議に化けた。当日は院内の安全確保と、都内の被害を受け止めること。帰宅できない患者が続出した。手術は止まった。検査も途中で終了。透析は回せなくなった。エレベーターが止まった。幸いカルテシステムは無事だったが、非常用電源の重油が12時間分しかないことが判明した。災害用食料が消費期限を過ぎていた。点滴用ポンプの使用を制限しなくてはならなかった。呼吸器をつけた患者をICUに集める。エレベーターが使えない中で、ジャクソンリースで換気をしながら、移動する。途中で父の主治医と出会った。この中で父の心配をしてくれた。もちろん、連絡はつかなかった。
夜九時、待機組を決め、災害派遣チームの中核を決め、DMATとも調整がついたので泰子たち管理職も帰宅することになった。秘書が帰宅できなくなっていた。泰子の家は徒歩でも25分程度なので、連れて帰った。院内にいたときは気が付かなかったが、道路は歩く人でいっぱい。車道はまったく動いていない。停電で町はところどころ暗い。エレベーターもガスも止まっていた。隣の奥さんが、ガスの使い方を聞いていて、教えてくれた。夫は真夜中過ぎに帰宅した。内視鏡の処置が途中で止まった患者の対応に追われていたと、疲れた様子だった。
震源は東北。巨大な津波がライブ中継で放送されていた。飲み込まれる街、人々、夜が来て、どうなるのか、震源はまだまだ寒い。万単位の死者を覚悟しなくてはいけない。研修医たちがこぞって派遣に名乗りを上げたのはうれしかった。
翌日は土曜日、大混乱の中、病院は通常営業。都内の大学病院も大混乱が続いていた。お茶の水あたりの国立病院は前夜からまともに稼働しておらず、白血病の初診患者が受付ロビーで一夜を明かした挙句に、本郷通りを北へ向かえと言われ、よろよろと康子のもとにたどり着いた。危なかった。

日曜日はマチネのオペラがあり、横浜で見る予定だった。イタリアの著名オペラ座の一行は、飛行機が飛ばないならせめて公演をしよう、ということで、巨匠の指揮のもと、プッチーニのトスカ公演を決行。余震が続く中で、不安だらけの観賞、5万円を超える高額チケットにもかかわらず、空席の目立つ客席、しかし、居合わせたものは決して忘れないだろう、祈りを捧げてくれた巨匠と、楽団と、当代随一のバスの歌い手によるスカルピアの歌唱を。音楽ってすごい。芸術ってすごい。

月曜日。首都圏は崩壊した。すべての交通が止まった。なぜ土日はなにごともなかったかのように動いていたのかは謎だ。康子は横浜のバイト先に向かおうと思ったが、横須賀線の駅はシャッタが上がる気配はなかった。バスが動いていたので逗子へ出た。京浜急行は動いていたのでこれ幸いと乗ってみた。始発なので座れてラッキー、などと思ったし、横浜だから間に合うかと思っていた。列車はたどたどしく進んだ。人がどんどん乗ってきて呼吸も苦しいほどの混雑になった。そしてついに、金沢文庫を過ぎたあたりから、進まなくなった。青砥の先まで行くはずだった列車は、行き先の変更を繰り返し、横浜についたのは11時。逗子から3時間。横浜はあきらめて終着になった品川で降り、大学に連絡をした。出勤できているのは徒歩圏内の者ばかり。先生、ゆっくり来てください、と秘書に言われ、品川のエキナカでぐったりとお茶を飲んだ。となりに同じように疲労困憊したサラリーマンが二人。取引先と連絡が取れないと嘆きつつ、もう、いいよな、自分のできる範囲でやろう、と話していた。康子もそうだ、と思った。こんな状況で、しかも震源は津波であんなことになっているのに、必死で仕事に向かう。日本人は、おかしいと思った。
恐ろしい事態が起きていることに気が付いたのはいつだろう。津波で被災した原発がメルトダウンしたのだ。放医研の先輩から切迫した電話を受けたのは月曜の夜。大変な事態になるかもしれないと。その後のことは、もう細かいことを覚えていない。骨髄移植の予定だった患者がいたが、ドナーが仙台で、骨髄採取ができなくなったこと、緊急で臍帯血移植をしたこと、関西のバンクがすぐに対応してくれたこと。電力の供給が不安定になり、東京といえども医療は崩壊したし、もちろん、福島以北の救援をどうにかしなくてはならず、DMATも津波被害は未知の領域でなすすべがなかったこと。
父が気がかりであったが、食事も睡眠もままならぬまま、ERのような生活。泰子が研究していた甲状腺のリンパ腫は、東欧中心に増加の一途をたどっていた。数年後にボディブローがくるのはまちがいない。地獄が続くのだろう。人々にとっても、医療者にとっても。
もし、日本が生き延びるなら、ほかの生き方を考えよう。

計画停電で暖房がつかえない日が続き、父は血糖値が悪化して緊急入院した。住まいから、泰子が副院長をしている先輩に頼んだ横浜市内の病院までは、タクシーでも20分程度。バスルートがあり、交通が不安定な時には母も行きやすいようだった。体調は戻らず、かねてから入所を依頼していた横須賀のホスピスにいよいよお願いした。病院とは打って変わって静かで外の春の花が見える個室で、少しずつ意識が落ちてゆく父がいた。
フラメンコの舞台は、節電でリハーサルもままならず、開催も危ぶまれたが、先生の執念のような奔走で無事に開催された。途中なんども、もうできないというスケジュールがあったが、泰子もなんとか参加した。
春のホール演奏会は同様に危ぶまれる状況の中、むしろ音楽を求める人々で大盛況となり、泰子はリストの巡礼の年から、エステ荘の噴水を弾いた。父が好きなイタリアの光景を弾きたかった。
やっと混乱がおちついた6月、父は眠るように亡くなった。

1年は復興に使った。
3月がまた巡ってきて、新しい職場を決めた。


おや、と思ったのは東大前の駅。