洋舞奇譚~204号室の女~
グランジャンプが2回飛べない。飛んだ時に天井に手がついてしまうこともある。それもあって、他のところを物色して、体験レッスンをいくつか受けた。ここなら、と思えるところがあり、順子先生のクラスはチケットを使い切るまで、と決めた。
土曜日の午後、仕事から出先に向かうときに、また彼女がついてきた。日比谷線は空いていて、向かいの座席に座った彼女はまたカメラを向けてきた。ペラペラのジャージー素材のワンピース。真冬なのに。泰子が真夏に着ていたものと同じものだ。サングラス。冬曇りの日に。足元は例のスペイン製のサンダル。真冬なのに。かなりブキミ。泰子の行く先は某大手商事会社のパーティで、泰子は少々ドレスアップしていた。銀座の会員制レストランの入り口に彼女が到達することはなかった。
2月の末、土曜のレッスン後、泰子は友人と池袋で待ち合わせをしていた。少々マニアックな植物の会があり、招待券をもらっていたので、それに行こうとしていたのだ。早々にスタジオを出た泰子の後を彼女は追ってきていた。池袋の北口から待ち合わせのカフェに向かい、混雑の中、うまく逃げられたかな、と思っていたのだが、サンシャインの会場に着いてしばらくしてから、カメラに気が付いた。会場内は撮影OKであったので、花を撮るふりをして撮り放題だっただろう。物販コーナーで、高額のレアなものを物色している泰子たちの近くで、店員に値切り交渉をしている彼女を見かけた。半額ほどの値段をふっかけていた。通常より少々安く出ているし、値段にはそこそこの交渉ラインがある。店員が苦笑いをしているのが分かった。泰子たちは顔見知りの業者や、生産者としばらく話をし、バックヤードに行ったりしていたが、彼女はついてこようとして止められていた。
その後、近くのカフェでケーキを食べながら積もる話をしたのだが、泰子たちが入ったところで、カフェは満席になり、彼女は入口で断られていた。1時間ほどのち、しつこくまたやってきて、今度は入ってきた。ほぼ入れ違いのように泰子は店を出た。池袋から泰子の家は近い。しかし、わざと地下鉄を使い、遠回りをした。家まではついてこなかった。
この日のバレエクラスの子が、らんの展示会のチケットが余ってます、と言って、行きたい人に配っていた。これまた招待券を頂くので泰子がいつも行っている大きな展示会のチケットである。彼女はそのチケットも欲しいといってもらっていた。
泰子は気が付いた。この子は、泰子のSNSを見ている、と。ストーキングが突如激しくなったころ、妙なアクセスが続いたので、SNSの投稿を友人限定に変えたのだ。たしかに、限定公開にした少しあとから、つきまといはエスカレートした。
見れなくなったから。どこに行くのか、何をしているのか、くっついてきて探しているのだ。いったい泰子のどこが気になるのだろう。
泰子は自分のホームページの情報をすべて友人限定公開に変えた。ピアノフォルテのSNSアカウントも限定公開を増やし、演奏会情報は日時を非公開にした。
フラメンコのライブは新宿のタブラオの予定で、何回か打ち合わせを兼ねていくことがあった。金曜の仕事のあとに約束をしたときは、また彼女が付けてきた。伊勢丹のゲランで化粧品を買ってから行ったのだが、いくつか購入しているあいだ、BAさんと話をしている彼女がいた。泰子が買った美容液を見せてもらっていたが、このお値段ですかと、聞いていて、大きいサイズもございますと言われ、沈黙、店員もどう扱ったものか困った様子であった。買い物をしたあと速攻で雑踏を抜けたのだが、必死の形相でついてきたので、タブラオのあるビルの中の業務用トイレを経由してやり過ごした。
フラメンコのリハーサルがあった日、幸先生が、1枚チケットの余りがないかと皆に聞いていた。全く知らない人なんだけど、見たいという人がいて、、と言っていた。
泰子は、彼女が来るな、と思った。
フラメンコの会はそれはそれは盛り上がって、楽しく踊ったのである。終演後、お客さんたちと写真を撮っていたときに、彼女を発見した。遠まきにしていて、このときはカメラを向けていなかった。小一時間後、アルティスタたちに御礼の打ち上げをするためにビルの外に出たところ、待っていた。そして、こんどはカメラを向けてついてきていた。
病院の保安部には警視庁OBがいる。安全管理のことで時々話をしていたので、泰子は相談に行った。彼の一言は、先生、やばい事例ですよ、であった。
医者や看護師はストーカー被害に合いやすい。業務上の対応であっても親切にしてもらったことを好意と誤解し、エスカレートしたり、逆恨みをされたり、と事例にはこと欠かない。泰子の恩師も、突然キレた患者に処置室でナイフを出されたことがあって、警察沙汰になっていた。
相手が男性であれば、泰子も気を付けるところである。美人で人気があるから、男性のストーカーは何度か経験している。刺激しないようにやんわりとお断りをするのは得意である。しかし、今回は、直接アプローチがない。しかも女性である。心理も目的もわからなかったので、当惑した。
保安顧問によると、女性の同性ストーカー行為としては割とありがちなことが集まっているとのことだった。後をつける、同じものを持つ、服装をまねる、など。ただ、たいがいは友達だったりするんですがね、と彼も首をかしげた。ご主人の患者さんだったようだから、そのあたりが接点なのでしょうかね、と。女性が好きな人なんだと思われます、気を付けてくださいと。
院内のことは知らせてください、と。何度か、管理エリアに入ろうとしてブロックされていることを話した。防犯カメラを確認して、配置している警備員に注意するよう言っておくとのことだった。
知り合いという関係にならない。(今までの接し方は正しかったと思われます、とほめられた)
ルーチンを変える。
関係者には伝える。
まずは近い予定のプロヴァンス。演奏会には出席するが、弾いたらすぐに帰ること、集合写真には入らないこと、等々、幹事たちに伝えた。泰子の話題は二次会とかでは出さないでほしいと頼んだ。気の毒に、動揺させてしまった。
プロヴァンスにはいろいろと共通点の多い近い友人がいるので、彼女にも細かく話した。医療者なので、やばいねえ、と、びっくりされた。
ピアノの芳江先生。今井さん、大学の助教、30代半ば、ですね。アプローチされたらお断りします、とのこと。
チェロの陽子先生。それ、そうとうやばいですよ!!と。ぜったい断るから大丈夫、気を付けますと。むしろ調べ上げたくて、やる気満々。そのほうがちょっと怖い。
フラメンコの幸先生は、謎のチケット入手者がその人だろうと思って、調べてくれたが、メールアドレスは案の定もう届かないアドレス。受付嬢は忙しくて顔見てなかった、と。
幸先生はショービズの人だけあって、気にしていた。顔がわかるバレエの写真を見せておいた。気を付けるわと言っていた。
バレエの順子先生は、レオタードに気が付いていて、あら、と思っていました、とのことだった。会わない曜日に来ます、と伝えておいた。
プロヴァンスの会は4月のはじめ、二俣川のホールだった。
状態の良いスタインウェイなので、演奏自体は楽しみにしていた。
作品名:洋舞奇譚~204号室の女~ 作家名:夕顔