洋舞奇譚~204号室の女~
当日は勤務後だったので、朝家を出た。なんと、ごみを捨てに出た彼女に見られてしまった。時間がなかったのでそのまま仕事に行った。
ホール楽屋に入ってみると。
泰子と同じダックスのトレンチコート、泰子と同じゲランのおまけのトートバッグ。客席で聞いている彼女をみると、泰子が演奏動画を公開した時に着ていた派手目のドレスの色違い。恐ろしく派手なメイク。彼女はリストのため息を弾いたが、泰子は聴かなかった。
気分が悪くてホールの外に出ていた。咳がでるので、と言ってホールの外にいたピアノ講師の友人がいたので、思わずこのことを話した。楽屋にあるコートとバッグを見せた。真剣に憤慨した彼女はあとで、演奏は趣味の領域って感じだったと教えてくれた。
幹事はすごく気を使ってくれて、一人にしないように誰かがついてくれたし、着替えるときには見張ってくれた。弾き終わるとすぐに退散した。楽しみにしていた演奏会が台無し。ホールの中にいると動画を撮られた。演奏中も撮られた。これは管理人も確認していた。これって明らかに違法でしょ。
もう限界だった。
泰子が楽しみにいろいろと作り上げてきた世界に土足で入ってこられたような気がしたし、なによりも気味が悪い。マンションのエレベーターの中で気が付いたのは、2階の自分の部屋の前でスマホをエレベーターの中に向けて撮っていることだった。朝も、夜も、外出から帰った時も。
二階の彼女の部屋204号室は、裏通りに面している。窓際からだと、外の通りを歩いてくるのが見えるのではないか。泰子が裏通りを戻ってきたときに、エレベーターの前で撮影するために待ちかまえたり、時には玄関ホールで鉢合わせするように外階段から降りてまた入ってきたりしているのではないか。
通勤ルートを変えた。路線も変えた。定期がまだあって、帰り道に使うことが多いけれど、そんなことはもうどうでもいい。
家に戻るときには裏通りは通らない。
髪を切り、服を買った。同じものを持っていることが分かっているものは捨てた。
プロヴァンスの管理人が言っていたが、二次会にはちゃっかり出席していて、最近電子ピアノを買って、うれしくて夜中に弾きまくっていたら、苦情を出されたんですよ、と笑っていたと。ふ・ざ・け・る・な。
買っているものは、すべてネット上で買えるものばかりだった。主にフリマ系のところか、質流れ系のサイト。チケットを買うようなイベントに来たのは、フラメンコと園芸の展示会だけ。ネット上で同じものを見つけては買ってしまっているのだろうか。いずれも型落ちだし、せいぜい2万ぐらいまでのものを買っている。とはいえ財政的には厳しいだろう。グッチは財布だけ、泰子はトートも使っていたが、20万近い品なので質流れでも10万だろう、手が出ないだろう。
ありとあらゆる手を使って、会わないようにしたが、何週間後か、芳江先生のところに行くときに、いつものルートを通ってしまって、山手線のホームで写真を撮られた。
朝、時間を変えたエレベーターの中、2回ほど204号室の前からスマホ撮影をされた。
夜、たまたま、だろうか、道路上で遠くに彼女を見つけた。泰子はコンビニに寄ったのだが、彼女もコンビニに入ってきた。そそくさと清算をして、違う店に寄ってから帰った。
大きなパーティがあった日、9時過ぎにタクシーで帰宅した泰子は大きな花束を抱え、ドレスアップしていた。彼女は後から例の、かなりぼろぼろになっているスペイン製サンダルでエレベーターホールに入ってきた。タクシーが止まったので外を見たのだろう。同じエレベーターに乗ってきてしまった。泰子はとっさに最上階のボタンを押した。
2回ほど、ピアノフォルテの小さなスピンオフ演奏会があった。
どちらも、SNSに出した日にちの公告は削除してあり、ダミーの別日が載せてある。
本番当日、彼女は来なかった。
泰子のホームページが見れなくなり、演奏会の公告が消えたのだから、気付いてもいいころだ。電車にもいない、バレエにも行かないのだから。
フラメンコ友達の弁護士によると、訴訟とか、警察とかでも充分に対応する事例だという。しかし、警備顧問も言っていたが、刺激してエスカレートすると、どう変貌するか心配であると、避けるという手段が有効なら、それで頑張ってみてはどうかということだった。
新しい通勤ルートは、むしろ、近い。バレエ教室も、むしろ良い。防音問題はないことが判明して、夜中もバリバリ練習している。
帰り道、行くとき、とにかく家と職場の近くでは気を使うが、避ける方法はいろいろと編みだした。
あとは、ピアノフォルテの会が気がかりではある。
SNSを作り直そう。そうしよう。
農学部などに行ってしまい、大学院に8年もいて、30台半ばで独身。これに関しては、女性が好き、そういう性的嗜好ならば独身やむなしかもしれない。曲がりなりにも。バレエをやっていた。ピアノも習っていた。そうだから、華やかな泰子に惹かれたのかもしれない。医学部の幹部なんて、リケジョとしては出世コース。その第一線で活躍しながら、演奏会や舞台で華やかに主役を楽しんでいる泰子は憧れになったのだろうか。同じ服の数々。泰子の舞台の追っかけ。職場や家の入り待ち、出待ち。寒い冬の夜に、宴会が終わるのを待っていたり、走り回って先回りしたり、すごいエネルギーと時間とお金を使って、この人どうするつもりなのだろう。
こんなことに費やす労力、他に使えば、よほどのことができるだろうけど。
だが、それがストーカーというものらしい。
何年もたつことで、はっきり記憶していないが、彼女が出没しはじめたのと、204号室にきたのはどちらが先だったのだろうか。引っかかっているのは、カルティエのカード入れのことだ。泰子はひとつの可能性を考えてぞっとしている。204号室の空きがでて、わざわざ引っ越してきたのではないかということを。
作品名:洋舞奇譚~204号室の女~ 作家名:夕顔