洋舞奇譚~204号室の女~
始業までは時間に余裕があったので、いつもと違うコンビニで買い物をした。いつもと違う出口から出て、少し遠回りをして、クリニックに向かった。1ブロック先の交差点をクリニックのほうに向かっている彼女を見つけた。角から表の入口を覗くと、ビルの自動ドアの外に立っていた。5分ほど待った。始業が近いので余裕がなくなってきていた。さすがにもう警察に通報しようかと思いつつ、様子を伺うと、駅のほうに戻って行く後姿が見えた。
すかさず裏口に回り、業務用エレベーターに駆け込んだ。
ブキミで吐き気がする。
どこで何をしているか、正確に知っているわけではないのだろう。
写真や動画、録音した内容と、直接後をつけているのが情報源かと思った。
帰りに出待ちがあるかと思って、恐る恐る通用口から出てみたが、いなかった。
夏休み期間だ。普通の大学は、夏季休暇が長い。教職員は研究だとか諸々忙しくしているのだが、採用初年度の彼女は業務が少ないのだろうか。朝、いつもの山手線に乗って、泰子の目の前の吊革に無理やり入り込んできている彼女は、パオラ・フラー二のスーツを着ていた。上着のデザインが悪いので泰子はスカートしか買わなかったものだ。そして、いつもは渋谷で降りるのに、恵比寿まで来た。日比谷線に乗り換える泰子の斜め前を、カメラをこちらに向けながら歩いていた。日比谷線に乗ることもあった。そのまま、泰子が近くのコンビニで買い物をしている間、そとで待っていた。泰子は反対側の出口から出てしまうのだが。そのようなことが何回かあり、気味が悪いので降りる出口を変えたりしてなんとか捲いた。
いつもの北陸演奏会は7月のはじめ、恐ろしく暑い日だった。
衣装を持って、土曜日の朝、山手線に乗って、しばらくして彼女に気が付いた。
東京駅で降りると、やはりグランスタまでついてきた。パン屋さんでサンドイッチを買う。たまたま同じ店に、病院の看護師で一緒に演奏会に向かう江本さんがいたので、おしゃべりしながらそれぞれパンを選ぶ。先方に手土産お菓子も買う。彼女は買うわけでもなく、ただ近くにいた。
そのまま新幹線口に向かう。自動改札を通ってからさりげなく観察してみると、まるで見送りでもしているかのように改札の外からこちらを見ていた。
この年の夏は暑くて、なにも記憶にないほどだった。
バレエ教室のあと、芳江先生のところの帰り、にも出待ちをしている頻度が増え、ほぼ毎回のようになった。ルートや時間を変えたりしてみたが、かなり熱心についてきた。
暑い暑い9月に、スペイン作品の演奏会があった。また彼女は来ていた。満席の演奏会であったので、演奏後も写真を撮っていた。打ち上げは隣駅のスペインバルだった。会場までの道のり、旧知の京都芸大のピアニストとこの1年のことを語り合っている泰子のすぐ後ろを歩いてくる彼女がいた。ティンパニのチューニングのことを録音して楽しいのだろうか。
フラメンコの舞台が年度末に決まった。
暑い夏から秋にかけての間、泰子たちのクラスは平日の夜に練習をすることが増えた。夜9時過ぎ、恵比寿は人が多い。にぎやかでおしゃれな街である。泰子たちは時々駅前のワインバーに寄ったりしている。帰り道、通称タコ公園といわれている小さな公園の角を曲がった駐車場のあたりで、いつのもような視線と足音に気付く。まさか、と思ったが、彼女だった。仲の良いみゆきちゃんと、筋トレの話をしていると、スマホをこちらに向けて信号までついてきた。
これは録音だろうと思った。スケジュールなどを会話から拾おうとしているのだ。
10月にはサークル・エトワールの演奏会があった。永田町のサロンの開演は14時。彼女は12時ぐらいから外にいた。恐ろしくドレスアップしていた。
お客さんがけっこういたので、まぎれてはいたが、関係者ではないことにメンバーは気づいていて、独身男性メンバーのファンではないか、とからかっていた。どなたの?と尋ねたところ、えーっと、荒川さんの、、と言ってたらしい。ピアノフォルテの定演のほうで荒川さんの名前を憶えていたのだろう。
エトワールの演奏会は、ネット上に告知されてはいない。とうやって知ったのか、不思議だった。いつものようにつけてきたのか。なんだろう。そういえば、プロヴァンスの会もどうやって知ったのだろう。
珠子さんとやっているピアノフォルテの定演はまた雑司ヶ谷のホールだった。康子の客は結構増えていて、先輩の医師たちも楽しみにして来てくれるようになっていた。ロシア歌曲を専門にしているソプラノ里美さんと、オペラと歌曲のプログラムを組んだし、連弾の相方、美紀子さんとは、死の舞踏の連弾をした。リストのスペイン狂詩曲がソロ曲だった。彼女は後半から来た。やはり、プログラムを見て来ているのだ。
11月、いつもの芳江先生の演奏会がいつものホールで開催された。ドレスアップしての正装演奏会で、チケットは2000円である。康子はいくつか歌手の伴奏をして、ソロはリストのスペイン狂詩曲を最後に弾く。これは一般には告知していない会だし、チケットが必要だ。受付のスタッフに招待者はだれかと聞かれ、プログラムを覗き込み、欠席の演奏者がいますが、といわれて、あ、じゃあ、と言って立ち去った。欠席だった奏者は、モデル事務所所属の長身イケメンだったので、彼のファンだろうということでスタッフは少々盛り上がっていた。泰子はまたブキミだなと思って心中穏やかではなかった。
それに、最近は、大学に行くためのバスに乗ろうとすると、たいがい彼女がくっついてくる。駅前の広場の物陰から、歩道を歩いていく泰子の左ななめ前方に入ってきて、カメラを向けて歩く。バス停では後ろにくっついている。やたら下のほうに視線を感じたときは、靴を撮影していた。なんか、すごい。でも、その割には彼女が履いている靴はなんだか妙なピンクのローファー、ふわふわのファーがついている。
思いついたことがあった。
泰子が記録用につくっているホームページだが、ちょうど2年ほど前に公開していて、演奏会の予定が記載されている。
日にちと場所、だけで、時間はないのだが。それが、今年の11月、つまり、芳江先生主催の演奏会が最後の予定で、更新していないのだった。先の予定がわからなくなって、不穏になっているのではないだろうか。追いかけて走っていたり、長い時間、外で待っていたり、時間も体力もすごい。
泰子が着ている服を見つけたら、喜んで買っているのだろうか。かなり個性的なプリントも、泰子はハーフコートだったが、彼女はミニスカートで着ていた。それにしても、金額的に大変だろうなと余計なことも考えてしまったが、考えてみると、泰子が買った翌年よりあとであるから、新古品か、中古だろう。ネットの画像検索で見つけているのではないだろうか。
忘年会や新年会のシーズン、金曜の夜は会合が多かった。土曜日も出かけることが多かった。出待ちされていることが普通になってきてしまい、出入口を変えたり、裏道を使ったりしてはみたが、彼女も頑張ってついてくる。一般客が入れない店も多いから、かなりブロックされているが、会合が終わった後、いつの間にかまた近くにいることもあった。
作品名:洋舞奇譚~204号室の女~ 作家名:夕顔