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癌になった親の介護記録

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10時と3時のお茶の時間には、皆と同じ空間で自分だけ飲み物も食べ物も出ずにボーっと皆が終わるのを待っていたのだと言った。
そんなある日、近くに座っていたお婆さんに、「あんたはお金を払っていないからご飯やお茶が出ないんじゃないの?」「ジロジロ見ないでよ!」と言われてしまったのだと言った。

私は、父が過ごしている一日を知って自分を責めた。
少なからず、介護職に携わっている私が勝手な気持ちでデイサービスに行かせてしまったのを申し訳なくてたまらなかった。

ケアマネさんには丁重に説明し、デイサービスをやめさせて貰った。
ケアマネさんも、直ぐに謝りに来てくれたのもあり問題にはしなかった。

だけど、問題は簡単には解決せず、そこからが地獄の始まりだった。


〈エピソード5〉

デイサービスをやめてから家で過ごす事になり、表面上は普段の我が家に戻ったはずだった。
だけど、おかしな事に父は日に日に痩せて行き、それと反比例して我が家の冷蔵庫の中が空っぽになって行った。
飲み物も冷凍食品も野菜も全て買ってきた次の日には無くなっていた。
息子に、「冷蔵庫の中の物を何でもかんでも食べないで!」と言うと、
「俺じゃない!だって普段は仕事で居ないじゃん!」と言い返された。

まさか、父が食べていたとは思いもしなかった為、疑ってもいなかったが、私が息子と言い合いになると、決まって部屋にこもっていたのが不思議だった。

そんな事が続いたある日の夜、私は小さな足音に驚いて飛び起きた。
あまりの忍び足に、泥棒か幽霊を想像していた私は、なぜか自分のベルトを持って、ムチの様に使おうと思いついた。

キッチンに向かうと、真っ暗い中を父が立っていた。
冷凍食品を電子レンジでチンしていたのが見えた。
あまりに驚き、「何してるの?」と咄嗟に怒ってしまうと、父は寂しそうに言った。
「食べられないと分かっていても、食べたい気持ちが止められない!俺はお金が無いんじゃない!」と大声で叫んだ。

とりあえず、部屋に戻る様に促し、私も一緒に父の部屋に行くと、あまりの光景に目を疑った。今まで私が買ってきた食料は、父が全て飲食しては嘔吐してあった。
ゴミ袋には空の容器がいっぱい詰め込んであり隠してあった。
嘔吐した物は自分では片付けられず、ベランダに置いてあった。
そして、一番驚いたのは、栄養を取れず痩せてしまい自力で歩くのがやっとの姿だった。
トイレも間に合わず、ベットの周りは便や尿が染み付いていて、
おまけに顔は腫れ上がり、目の上がパックリと切れていた。
ついさっき転んだのだと言ったが、私は黙って救急車を呼んだ。

再び父が入院したのは、前回退院してから、わずか二週間の話だった。

季節はゴールデンウィーク目前の4月の末だった。


〈エピソード6〉

再び入院した時、父は小さな声で呟いた。「これでもう俺の人生は終わったな!」と。
入院してすぐに、先生と相談員さんとケアマネさんとの話し合いが開かれた。

状況は再び悪くなり誤嚥性肺炎にもなっていたが、今回はもっと重大な問題が起こっていた。それば、父が摂食障害になっていると言う事だった。
「過食嘔吐」と言う心の病に侵されてしまっていた。
せっかく退院したのに、また入院させられた!と私を責めているのだと聞かされた。

私も、自分が責められている事に憤りを感じたが、だからと言って父を責めても仕方のない事だとは理解していた為、まずは落ち着いて話せる様になるまで距離を置く様言われた。

世間ではゴールデンウィークの真っ只中、我が家は暗い雰囲気に包まれていた。
息子は、「この二週間、ずっと問題ばかりだったから、母さんも休みな!」と言って励ましてくれた。
私は、仕事柄ゴールデンウィークは無いので仕事に専念し、息子は友達と遊びに出かけて行った。正直言って、父がいない日々は少し気が休まった。

ゴールデンウィークが終わると病院から連絡があり、状態も安定したから、このまま放射線治療を始めたいと言われた。本人も、放射線治療が始まった事と、心療内科のカウンセリングでかなり平常を取り戻したとの事だった。

だけど、父とは逆に私の気持ちが昔の記憶を呼び覚まし、やっぱり嫌な人だとしか思えなくなっていた。だから、必要な物は父が治療に行っている間に持って行った。

放射線治療が終わりに近づくと、自然と退院の話が出て来た。
私は息子や叔母に相談をして、このまま施設に入れる提案をした。
誰も私を攻めようとはせず賛成してくれた。

それから、病院の相談員さんに伺い施設をいくつか紹介して貰った。
でも、結果的に言うと父を施設に入れるのは無理だった。
年齢が後期高齢者ではない為に、介護保険を使ったとしても月の負担額が20万円程になると言われた。普通の病院は入院出来る期間が決まっていて、長くて半年しか入院出来ないと言われた。グループホームは認知症でないと入れないし、本当にどうする事も出来なかった。

諦めた私は、仕方なく家で見ることを決めたが、本人は私の態度が気に入らないけど家には帰りたいから、「帰りたい」とだけ言った。

こうして5月半ばに退院した。


〈エピソード7〉

予想はしていたが、やはり家に戻ると早速、冷蔵庫をあさる日々が始まった。
あんなに好きだった息子も、父の奇行に気持ち悪さを抱き、家にいることを嫌がる様になった。
私も、息子と叔母には初めから匙を投げていると言ってあった為、この先に弱ろうと転ぼうと面倒は見ない!と言っていた。

案の定、すぐに咳を出し始め、おそらく誤嚥性肺炎になっているだろうと思っていた。
けれど、本人は二度と入院はしたくない気持ちがあり、絶対に調子が悪いと言わなかった。
そうこうしていたある日、父の部屋から異臭がすると息子に言われ、様子を見に行くと、体調が悪くなり寝たきりで排泄をしてしまった父が居た。

私は、これを見なかった事にしたら介護の仕事も続ける資格がなくなってしまうと思う気持ちだけで、必死に片付けや着替えをした。
「ネグレクト」と言う、介護放棄は絶対にしてはいけない事だと知っていたからだ。
介護士をしている責任感とプライドだけでやっていた。

便が張り付いた臀部(お尻)をお湯でキレイに洗っている時は、ふてくされていた父が「お湯が熱い」「これじゃぬるすぎる」と文句を言った。
身の回りを全てキレイにしても、ありがとうの一言も言わない父に憎しみが込み上げた。
私が介護職を長年やっていられるのは、どんなに認知が酷くなったお年寄りでも、
「ありがとう」と言ってくれる喜びがあるからだと再確認した。

その日、私は泣きながら仕事に出かけて行った。悲しいのか悔しいのかはよくわからない。

それからしばらくは仕事でも家でも介護が続き、私の体力が限界に近くなり始めていた頃、寝たきりになった父が「死にたくない…」と呟いた。
いよいよ自分でも強気で居られなくなり、自分から病院へ行きたいと言い出した。
そして私は2度目の救急車を呼んだ。


〈エピソード8〉

前回退院してからまたまた二週間余りの期間で再入院となった父は、かなり落ち込んでいた。そして、今度こそ二度と退院させてもらえないと悟った様だった。
作品名:癌になった親の介護記録 作家名:TSUKIKO