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癌になった親の介護記録

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そして、手術までにしなくてはいけない条件として、低下している呼吸器を正常に戻す事と、歯の治療だと言われた。
何でも、虫歯があると手術した時に唾液と一緒に菌が幹部に蔓延して癌細胞が活性化してしまうから、虫歯を全て治す必要があった。

先生からそれを聞いて父が笑った。「歯は心配ないな、だって総入れ歯だから!」と言って入れ歯をパカパカさせた。皆んなで思わず笑ってしまったが、
となると、クリアしなくてはならない問題は呼吸だけとなり、そこから肺活量の向上と維持が課題となった。
病院の売店に、肺活量を向上する訓練器具があると言われ、直ぐに買いに行った。

そこから毎日リハビリをして頑張っていた。とても意欲的に頑張っていた。
私も仕事に復帰して、何とか仕事と看病を続けていた。

年が明け2018年の1月の末に、いよいよ手術が決まった。
本人も大層喜んでいたのもあり、周りの皆も元気になっていた。

なのに…順調に手術の日を待ち望んでいた父に再び不運が訪れた。

手術の2日前、熱が出て緊急検査になった。そして、レントゲンの結果、誤嚥性肺炎を起こしている事が判明した。どうやら、数日前に歯磨きをしてうがいをしている時に軽くむせ込んだのが原因で、水が肺に入ってしまったのだと告げられた。
そして、肺炎になった所へ食道癌の菌が浸出してしまっていると告げられた。

発見が早かったので大事には至らなかったが、こんな些細な事で手術が白紙に戻されてしまったのだ。
手術をするには浸出してしまった肺も取り除かなくてはならず、リスクが一気に上がってしまった為、断念せざるを得なかった。

その事を父を含めた身内に先生から告げられ、一同揃って肩を落とした。

この時点で残されたのは「三番目」の抗がん剤と放射線治療しか選択肢は無くなった。
父はポツリと「もう家に帰りたい…、手術出来ないならうちの近くの市立病院に転院したい…」と呟いた。

先生も、父の頑張りを見ていた分とても落胆したが、「本人が希望するなら地元の病院で治療をした方が気が楽になるのではないか?」と言って転院の手続きをしてくれた。
何より、誰のせいでもないのが一番辛かった。

こうして、地元の市立病院に転院する事となった。


〈エピソード3〉


2018年2月に入って直ぐ、市立病院に転院した。

父はすっかり元気をなくしたが、地元に帰って来た事を素直に喜んでいた。
しかも、地元と言う事で知り合いも多く、皆んなそれぞれ病気と闘っていたのが少なからず希望になっていた。

転院して直ぐに抗がん剤治療が始まった。
世間一般に知られている通り、抗がん剤治療にはリスクが伴った。
髪が抜ける事や激しい嘔吐、拒否反応による熱発など色々あったが、父は承知の上で始めた。

私も地元に帰って来たので付き添いに行きやすくなり、時間があると顔を出した。

抗がん剤が始まり、周りの患者さんは嘔吐で苦しんでいる中、自分も同じ思いをするのが少し不安だった様で、気を紛らわすためにテレビで周りの患者さんの声を聞かない様にしていた。
私も、仕事に行きながらの看病だっので、一日中は居られない。

いざ治療が始まり、嘔吐に苦しんでいるだろうと思いながら病院に行くと、ベットに横たわりながら元気に手を挙げて「おぅ!」と言った。
覚悟はしていたものの、何にも吐き気が起こらず、本人はケロっとしていて、
「まだ治療は始まってないんじゃないか?全然気持ち悪くならないからさ」と言った。
私も(そうなのか?)と思いながら、ナースステーションへ向かった。

そこで父の事を伺うと、予定通り治療は始まっていると言われ2度驚いた。
中には治療の薬が合っていて、嘔吐をしない人も居るのだと初めて知った。
またまた父の運には笑ってしまい、運がいいのか悪いのかわからなくなっていた。

休みの日には息子も顔を出したが、驚いたのは父が息子の友達に大人気だと言う事だった。若者が大勢で父を囲み、楽しそうに笑っているのだ。
とっさに、「他の方に迷惑かけるから、談話室に行ってきなよ!」と促したほどだった。

その際も、父は自分で点滴の棒を持ちスタスタ歩いているのが可笑しかった。
私は、私の代わりに息子をしっかり育ててくれたんだと改めて感謝した。

無事に抗がん剤治療がおわり、髪も抜けずに済んでいたのを父が一番喜んだ。
そして、次は放射線治療に入り、季節はもう春になろうとしていた。
経過も良好で、家からも近い事から、放射線治療の行程で空きの期間は退院が許された。
その条件として、簡単な手術で腸に直接栄養を流す為の管を通す事だったが、本人は家に帰れるのが嬉しくて、手術など気にも留めていなかった。それを医療用語では
「腸ろう」と言った。胃ろう経管の腸バージョンである。

一連の流れを見ると、とても良い状態に見えるが、私達に待っていた本当の試練はこの後から始まった。この時は、全く予想もしていなかった事だった。


〈エピソード4〉


2018年4月半ばに父は退院した。
本人は生きて家に帰れると思っていなかった為、帰りの車で泣いていた。

家に帰って来てからは、部屋で日向ぼっこをしたり洗濯物をたたんでくれたりと、それなりにのんびり過ごしていた。

変わっとことと言えば、私と息子が食卓でご飯が食べられない事だった。
父は何よりも食べる事を望んでいたが、今の状況は食べられないのを承知し、食べない事を約束した上での退院だった為、私達が食べているのは見せられなかった。

本人も悪気はないのだが、息子が何かを食べる度に「じいちゃんにもくれよ!」と言っては困らせていた。
段々とそれが酷くなり、私達も家では物が食べられなくなり外食が多くなった頃、担当のケアマネさんに相談をした。

相談をした結果、少しでも気が晴れる様にとデイサービスに行く様に勧めた。
本人も、暇つぶしになるならと喜んで行き始めたが、当然、皆が昼食を食べている時は、別室で横になって栄養経管をするのが約束だった。
それでも、別室で休ませて貰えただけで有り難かったと思っていたが、
通い始めて一週間ほど経つ頃から、段々と父から笑顔が消えていった。

(おかしいな?)と思った私は、「デイサービスはどう?」と聞いた。
すると、本人は急に声を荒だてて一気に思いを言い放った。
「もう行きたくない!家でテレビを見ている方がマシだ!」と泣いた。
あまりの光景に驚き、「ちゃんと聞くから落ち着いて話してみなょ!」と言った。
涙を手で拭いながら父が話し出した内容は、まずは、入浴に関する事だった。

デイサービスでの入浴は1日に30人から40人を入れるのが普通だと知っていたのもあり、芋洗い式のようになってしまうのは仕方ない事だと思っていたが、父が嫌がったのは、座って直ぐに何も言わずに頭からシャワーをかけられて、目の中や耳の中に水が入ってしまうのが毎回嫌でたまらなかったと言った。息が苦しいのを我慢しながらの入浴が苦でしかなかったと言った。
そして、昼食の時、別室で横になって栄養経管をしてくれる約束だったが、実際は、皆が昼食を食べている隣でつい立てひとつで仕切られた椅子に座って栄養経管をしていたのだと言った。
作品名:癌になった親の介護記録 作家名:TSUKIKO